熊本県のご先祖調べ

令制国の肥後国にあたります。もとは肥前国と合わせて火国(肥国、ひのくに)と呼ばれ、噴火を繰り返す阿蘇山に由来するといわれています。
肥後国の国府は熊本市国府付近と推定されています。

戦国期以前の熊本県
 肥後国北部では阿蘇神社の大宮司阿蘇氏と、大宰府の府官で肥後国に土着した菊池氏、 南部では遠江国から球磨郡に土着した相良氏が勢力を拡大していくことになります。

 南北朝時代の菊池氏は後醍醐天皇の皇子懐良親王を擁して、九州の南朝勢力の雄として活躍。 南朝方の名和氏も八代へ移り、肥後国は南朝方の中心拠点の位置にありました。
 一方、大宮司阿蘇氏も菊池一族と歩調を合せ南朝方として奮戦します。しかし一族内に抗争がおこり、大宮司も北朝方と南朝方に分れ、長きにわたる抗争が続きます。
 建徳元年(1370)今川貞世が九州探題に任じられると、その卓越した政治力によって、情勢が武家(北朝)方優利へと傾いていきます。 ついに菊池武朝阿蘇惟政が武家(北朝)方に帰服し九州の南北朝の争乱も終わりをつげます。

 戦国時代になると、菊池氏や阿蘇氏は一族内の抗争、国人衆の台頭に苦しめられます。
文明16年(1484)肥後国守護菊池重朝に宇土為光が挙兵、 文亀元年(1501)には重朝の跡を継いだ菊池武運は重臣の反抗にあい、島原有馬氏のもとへ逃れています。
文亀3年有馬氏・相良氏の協力を得た菊池能運(武運)は、さらに天草勢の支持を得て復帰に成功、しかし戦場で負った傷がもとで25歳の若さで死去します。
 この菊池氏の混乱に乗じた大宮司阿蘇惟長は豊後大友氏の支持を取り付け、菊池氏家中を懐柔、菊池武経を名乗って肥後国守護職となります。
 以後菊池氏は豊後大友氏の影響を強く受けるようになり、衰亡期に入っていきます。
 大友氏の傀儡に過ぎない守護職を自ら退いた武経の後、菊池一族の詫磨武包を守護に迎えますが、永正15年(1518)大友義鑑は武包を追放させ、弟の義武(重治)を肥後国守護に据えます。
 阿蘇氏甲斐氏らの支援を得た大宮司阿蘇惟豊が一族の内訌を収拾し、軍備・内政を整え、戦国領主として土台をつくりあげます。

 一方、肥後国南部で勢力を振るった相良氏は、多良木荘(多良木町)を本拠とする上相良家と人吉荘(人吉市)を本拠とする下相良家に分れ、文安5年(1448)下相良家の相良長続が上相良家を滅ぼし球磨を統一します。
さらに八代と葦北の領有に成功し、球磨・八代・葦北三郡を基盤に戦国領主化していきます。

 戦国時代後期になると、肥後国をめぐって豊後大友氏と薩摩島津氏が対立するようになります。 大友義鎮は城氏・小代氏らを引き入れ、肥後国中北部を征圧、名族菊地氏はここに滅びます。
 一方、阿蘇氏は大友氏の傘下に入ることで領国の安定を図りますが、天正6年「耳川の戦い」で大友氏が島津氏に大敗すると、 島津氏や肥前龍造寺氏になびく国人衆の反抗に苦労することになります。
 国境を島津氏と接する相良氏は天正9年(1581)島津勢の猛攻ついに降伏、肥後国南部を制圧した島津軍は肥後国北中部の阿蘇氏領へ進出します。
天正11年(1583)宿老甲斐宗運の奔走により島津氏と和睦した阿蘇氏でしたが、有力者が相次いで歿し急速に弱体化します。
 肥後国の制圧を成し遂げ九州制覇を目前にした島津氏でしたが、豊臣秀吉率いる10万の大軍勢の前に九州の国人衆は次々と降伏し、島津義久は剃髪して秀吉に降伏しました。
 ここに九州の戦国時代は終焉します。

 肥後国には佐々成政が入ります。 しかし太閤検地に反対する肥後国人一揆が起こり、成政はその責任を負って改易となり、肥後国北半分を加藤清正、南半分を小西行長に分け与えられました。
 秀吉に球磨の所領を安堵された相良氏は、「関ヶ原の戦い」で西軍に付いたものの東軍に寝返り、徳川家康により所領を安堵され近世大名として存続することとなります。

熊本県の名字
 では戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。以下は熊本県発祥の名字です。
 ただし名字の出自や由緒には諸説あり、すべては網羅できておりません。参考の一つにしてください。

 まず早くから武士団を形成した菊池氏の分流に以下の諸氏があります。
  西郷・紀伊・山崎・小島・中村・兵藤・山鹿・迫間・合志・永里・天草・藤田・詫磨・
  村田・井芹・長坂・出田・志岐・薗田・東・佐野・赤星・原・高倉・永野・砥川・
  八代・片角・江良・益城・小野崎・林原・中山・平山・加恵・城・本郷・蛇塚・方保田
  林・村山・若宮・須屋・堀川・甲斐・長瀬・島崎・重富・肥後・木野・津江・高瀬・
  西・新宮・宇土・城・下城・栖本・千田・隈庄

 なかでも甲斐氏は大宮司阿蘇氏の家老となり、名字は隠棲した甲斐国都留郡に因みます。
 菊地氏の重臣では、大和源氏宇野氏流の隈部(くまべ)氏、伊賀服部氏流の内空閑(うちこが)氏、菊地氏流の城氏が知られています。
 隈部氏からは阿佐古・長野・富田・仲光の諸氏が出ています。
  <菊池十八外城と城主>
  菊池古城/菊池氏  鷹取城/原田氏  亀尾城/板井氏  城林城/城氏
  元居城/伊倉氏  古池城/出田氏  馬渡城/蛇塚氏  正光寺城/加恵氏
  増永城/西郷氏  台城/城番  神尾城/水次氏  葛原城/市野瀬氏
  五社尾城/不明  掛幕城/柏氏  市成城/城番  黄金塚城/惣谷氏・平山氏
  戸崎城/鹿島氏  打越城/林原氏


 阿蘇大宮司の分流として竹永・恵良・津屋・中村・上島・坂梨・宮西がみえます。

 肥後国南部の球磨郡を中心に勢力を張った相良氏の分流に以下の諸氏があります。
  多良木・永富・上村・稲留・犬童・深水・佐牟田・丸目・丸野・内田・愛甲・有瀬・
  板井・今村・亀山・川馳・桑原・佐原・澄川・薗田・外越・高橋・竹下・鶴田・豊永・
  中島・西・西橋・馬場園・林田・原・松本・簑毛・村山・樅木・山井・山北・山本・
  吉牟田・井口・岩崎・乙益・久保田・黒肥地・新堀・鍋倉・肥地岡


 その他、阿蘇郡からは小国郷北里におこる清和源氏多田氏流北里氏や、 豊後清原氏流葉室氏、出自不詳の高森・蔵原・久木野・室原の諸氏がでています。
 山鹿郡からは藤原姓相良氏流の山井・内田氏が出て、筑後の五条氏も進出しています。
 玉名郡では公家藤原北家日野氏流大津山氏藤原姓相良氏流山北氏武蔵児玉党小代氏が勢力を持ちます。 小代氏からは増永・荒尾・一分(いちぶ)・中分(なかぶ)・蔵満・宮内の諸氏が出ています。
 合志郡からは菊地氏流以外に中原姓大友氏流宇多源氏佐々木氏流合志氏があります。
大友氏流合志氏は竹迫氏ともいい、三池・鹿子木を分出しています。 佐々木氏流合志氏は平川・弘生(ひろう)・穴保田・牧・古庄・瀬田を分出しています。
 飽田郡では大蔵姓原田氏流田尻氏橘姓渋江氏流牛島氏藤原姓相良氏流内田氏醍醐源氏河尻氏が勢力を持ちます。
 益城郡からは醍醐源氏木原氏、出自不詳の竹崎・田代・伊津野・津志田の諸氏があります。
 八代郡には南朝の名和氏が入り、一族の内河氏とともに勢力を持ちます。 平姓緒方氏流久連子(くれこ)・椎原氏菅原姓仁田尾・樅木・葉木氏、出自不詳の宮原氏があります。  葦北郡には葦北衆の田浦・佐敷・湯浦・津奈木・水俣・二見の諸氏があります。
 天草郡では大蔵姓原田氏流の大矢野島大矢野氏と本砥島の天草氏菊地氏流の下島志岐氏が勢力を持ちます。 天草氏からは上津浦・長嶋・河内浦・宮地・栖本の諸氏が出ています。 戦国時代には天草・大矢野・志岐・上津浦・栖本が天草五人衆と呼ばれました。

 熊本県の苗字ベスト20位をあげると、以下の通りです。
1田中 2中村 3松本 4村上 5坂本 6山本 7山下 8前田 9吉田 10本田
11緒方 12渡辺 13佐藤 14宮本 15宮崎 16山口 17上田 18池田 19井上 20橋本

 熊本県は稲作文化の先進地域でもあり「田」が付く苗字が多く、20位以内に6つあります。自然・地形の「山」が付く苗字が3つあります。
また中村が2位にあり、典型的な西日本型苗字の傾向にあります。
 11位の緒方氏は、豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市)におこる大神氏流緒方一族とされ、その分流は北部九州一円に広がっています。 13位の佐藤氏は大分県で第1位の大姓であり、大分県から人の移動を感じさせます。

江戸時代の熊本県
 「関ヶ原の戦い」で西軍に付いた小西行長が改易となり、加藤清正がその領地と合わせて52万石の領主となります。 清正は熊本城を築き、また治水に努めて新田開発に尽力します。しかし清正の子加藤忠広が寛永9年(1632)に改易となります。
 代わって豊前小倉藩主細川忠利が54万石の領主として入封します。
細川氏は、室町幕府15代将軍足利義昭に仕えた細川藤孝(幽斎)を後裔で、 藤孝の長男細川忠興(忠利の父)は、「本能寺の変」で妻ガラシャの父明智光秀に与せず、羽柴秀吉に仕えて丹後国12万石の領主となります。 「関ヶ原の戦い」で東軍に付き、その功績により豊前小倉藩となっています。
細川熊本藩は明治維新まで続き、支藩として宇土藩熊本新田藩があります。 また家老松井氏は八代城代として3万石を与えら、事実上は八代支藩の藩主でした。

 肥後国南部の球磨地方には人吉藩があります。
 藩主相良氏は鎌倉時代の地頭に始まり、戦国大名、そして近世大名として明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つです。
相良人吉藩は薩摩藩と同様に戦国期以前の統治形態が残っており、領内を14の外城で支配し(外城制)、半農半士の武士(郷士)が農村地に居住しました。 郷士数は人口の約1/3を占めていたといいます。また真宗禁制も薩摩藩と同じです。

 天草は、寛永14年(1637)の「島原の乱」以後天領(幕府領)となります。
初代代官鈴木重成はキリシタン信仰に対抗する教えてとして、「禅」による住民の教化に努めます。 また「島原の乱」による荒廃無人地域には周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力しています。
よって天草地域は江戸前期の移住者が多い傾向にあります。

熊本県の家紋
 熊本県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、熊本県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 鷹の羽 2位 片喰 3位 梅鉢 4位 木瓜 5位 桐
6位 菱・花菱 7位 藤 8位 茗荷 9位 橘 10位 巴

 日本の十大家紋と比べると、沢潟紋蔦紋柏紋がランク外となり、 かわりに梅鉢紋巴紋菱・花菱紋がランク入りしています。
 鷹の羽紋は阿蘇神社の神紋であり、 大宮司阿蘇氏の定紋です。菊地氏も鷹の羽紋を定紋としています。
初代菊地則隆が阿蘇の神の神託を得て、 夢中に鷹の羽の幕紋を与えられたと伝えられていることから、阿蘇社信仰に由来すると考えられます。 『蒙古襲来絵詞』の菊地武房の旗印には「並び鷹の羽」が描かれています。
 梅鉢紋が多いのは天神信仰に由来すると思われます。

熊本県の寺院
 熊本県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、熊本県の宗派別の割合は以下の通りです。

  県北
(玉名・菊地)
県央
(熊本・宇土)
県南
(八代・人吉)
天台宗 2% 2% 1%以下
真言宗 8% 5% 9%
曹洞宗 5% 8% 20%
臨済宗 1%以下 1% 3%
浄土宗 2% 7% 11%
浄土真宗 62% 57% 43%
日蓮宗 8% 12% 5%
その他 12% 8% 8%
 熊本県全体を通して真宗寺院の多く、対してその他宗派の寺院の少なさが際立ちます。
人吉藩においては一向宗(浄土真宗)はキリスト教同様に禁教でしたが、その信仰心は領民に深く浸透し、「隠れ門徒」として篤い信心を行う信者もいました。
 曹洞宗は天草地域に多く、代官鈴木重成の宗教政策に関係しているようです。

熊本県の神社
 肥後国一之宮は阿蘇神社です。阿蘇市一の宮町にあります。
 12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称されています。 一宮の祭神は初代神武天皇の孫健磐龍命(たけいわたつのみこと)です。
 社伝では、孝霊天皇9年健磐龍命の子速瓶玉命(阿蘇都比古命・初代阿蘇国造)が両親を祀ったことに始まるといいます。
速瓶玉命の子孫という阿蘇氏は阿蘇神社大宮司を世襲し、一大勢力となり在地領主化します。
 社家には権大宮司の山部氏や、宮川氏・黒田氏・岩下氏がありました。

※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。
 参考の一つにしてください。
 また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。

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