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苗字について

弊社では数多くの苗字(名字)の家系を調査して参りました。
イメージ 苗字ランキング上位200位以上の苗字は「江戸時代以前のご先祖調査完了 家名(苗字)リスト」で紹介しています。
お客様の苗字を調査しているかもしれません。 どうぞご参照ください。
「ルーツ探検」において、まず家系と苗字(名字)の関係を知っておく必要があります。
ここではその基礎知識をご紹介します。

源平藤橘の登場
 源氏は四姓でもっとも新しく、第52代帝嵯峨天皇(~842)の皇子が弘仁5年に源朝臣姓を賜与されて臣籍降下したことに始まります。以後、江戸時代に成立した正親町源氏まで21系統があるといいます。「源」には皇室と祖(源流)を同じくするという意味があります。 なかでも中央貴族として栄えた公家源氏には第62代帝村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏や、第59代帝宇多天皇の皇子敦実親王の子源雅信源重信兄弟を祖とする宇多源氏があります。 武家源氏では第56代帝清和天皇の孫経基王を祖とする清和源氏が代表格です。この他、嵯峨源氏・宇多源氏・村上源氏からも有力な武家が出ています。
源氏の代表紋とされる「笹竜胆紋」は、公家源氏の代表格村上源氏久我氏が用いた家紋です。

 平氏は第50代帝桓武天皇(~806)の皇子葛原親王の子高棟王・高見王が天長2年に平朝臣姓を賜与されて臣籍降下したことに始まります。以後、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の4系統が出ています。 「平」の由来には諸説あり、桓武天皇が建設した平安京にちなんだ説が知られています。
もっとも勢力を持ったのが高見王の子高望王の系統です。関東に基盤をつくり武士化し、「天慶の乱」を起した平将門や、その将門を倒した平貞盛を輩出しています。さらに関東に根を張った板東平氏や鎌倉幕府の執権北条氏も高望王の末裔です。 平氏政権をつくった平清盛を出した伊勢平氏は平貞盛の末裔です。
平氏の代表紋とされる「揚羽蝶紋」は、伊勢平氏の伊勢氏・関氏らが用いた家紋です。

 藤原氏中臣鎌足が「大化の改新」の功績により、死の直前に天智天皇から藤原朝臣姓を賜ったことに始まります。 鎌足の子藤原不比等の系統が藤原朝臣を認められまれます。「藤原」は鎌足の生地大和国高市郡藤原(橿原市)に由来します。
以後、藤原氏は朝廷政治の中枢にあって平安時代中期には摂関政治をおこない最盛期を極めます。 しかし平安時代後期になると、藤原氏と姻戚関係にない上皇による院政が始まり、武力を背景にした平清盛政権、そして源氏棟梁を征夷大将軍とする武家政権が樹立されると、 藤原氏の権勢は次第に失われていきます。
鎌倉時代以降、藤原北家嫡流である近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家(五摂家)が交代で摂政・関白に就き、公家社会では一定の影響力を持ち続け幕末を迎えることになります。 公家社会のなかで堂上家(昇殿を許される家柄)は137家のうち96家が藤原氏族でした。
中央政界より地方に活路を求めた藤原氏族は、任地国や縁故地へ下り、名字を名乗り武家として発展することになります。新たに名字を名乗る際に「藤」の一字を用いました。 その代表的のものを十六藤といい、つぎの名字があります。
   安藤・伊藤・遠藤・加藤・工藤・後藤・近藤・佐藤・斎藤・神藤・進藤・
   春藤・須藤・内藤・尾藤・武藤


 橘氏は、元明天皇(~721)に仕えた県犬養三千代が橘宿禰姓を賜り、 三千代の子葛城王が臣籍に降り橘諸兄を称したことに始まります。その後、諸兄は橘朝臣姓を賜与されます。 しかし橘奈良麻呂が藤原仲麻呂との権力争いに敗れて勢力を失い、以降中央政界では下級官人として家系を伝えました。後醍醐天皇に仕えた楠木正成は橘氏といわれています。

 源平藤橘に次ぐものとして、在原氏・清原氏・菅原氏・大江氏・紀氏・惟宗氏などが中央政界にいましたが、源平藤橘と同じく地方に活路を求めて下向し、基盤を作って地方豪族として成長するものが現れます。 また在地領主が中央貴族の氏姓を仮託するものもあらわれ、中央の氏姓が地方へ拡散していきました。
  在原氏…第51代帝平城天皇の子孫。阿保親王・高岳親王の王子が臣籍降下し、
   在原氏と名乗る。阿保親王流の行平・業平兄弟の子孫が栄えた。
  清原氏…第40代帝天武天皇の皇子舎人親王の子孫夏野・長谷が臣籍降下し、
   「清原真人」の姓を賜わったことに始まる。
  菅原氏…野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫古人が大和国菅原邑に住み、
   菅原氏を名乗る。大江氏と並び、子孫は文章道を家業として朝廷に仕えた。

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名字の成立
 元々は「名字」と書き、藤原氏や源氏など氏(うじ)の中で家を区別する必要から、平安中期から鎌倉時代に邸宅地名や所領地名を称号としたことに始まります。
藤原北家五摂家の成立をみると、以下の通りです。
 近衛家…基実の子基通が近衛大路の北、室町小路の東の近衛殿に住したことに由来。
 九条家…忠通の子兼実が九条大路の九条殿に住したことに由来。
 鷹司家…近衛家実の子兼平が鷹司小路の鷹司殿に住したことに由来。
 一条家…九条道家の子実経が一条大路の一条殿に住したことに由来。
 二条家…九条道家の子良実が二条大路の二条殿に住したことに由来。
その背景には父から子へ継承させたい膨大な荘園的所領や職業、そして邸宅・墓所・菩提寺が固定化し、これらが「家」として継承・世襲すべき家産・家職として認識され、家名に付属されたことにあります。 つまり「名字」「家名」として認識されるようになります。
 武家の場合も基本的には同じで、「名字」成立の背景には開発や横領などで得た私有財産や地方官僚ポストを世襲することで、家産家職化が進んだことにありました。
武家では、家督権を持つ惣領が本領・本宅・名字を相続し、庶子はその一部を分割譲与することが一般的でした。また庶子たちも新たに所領を開発拡大し、所領地名を「名字」としました。 清和源氏新田氏では、上野国新田荘の開発領主新田義重の子義範は上野国多胡郡山名郷を与えられ山名氏を、義季は同国新田郡世良田郷を譲られ世良田氏を称しています。
このように「名字」は本拠地名に由来するものが多くあります。
 しかし少数ながら官職名を名字にするケースもあります。大宰小弐の少弐氏、陸奥留守職の留守氏、国衙の職名から出た税所氏・調所氏、 荘官の呼称である下司氏・公文氏・田所氏などがあります。

 このように「名字」は一部の特権階級が使用できるものでしたが、それを真似て一般庶民もひそかに私称していたようです。
 文明15年(1483)の東寺二一口方供僧評定文には「近頃境内の地下人など稚意に任せて名字を名乗る由、先代未聞の次第なり。所詮向後においては停止せられ、万一承引せざる族においては堅く罪科に処すべき旨」とあります。 庶民が「名字」を名乗ることを抑えようとしています。

江戸時代の苗字
 身分が固定化する江戸時代になると、苗(血縁)を同じくするという意味で「苗字」の字が使われるようになります。
「江戸時代の庶民には苗字が無かった」といわれますが、とくに先祖祭祀を重んじ血族意識の強い地域においては「苗字」は伝わっていました。
それらは石塔や神社関係文書にて確認することができます。
 また家を区別するものとして苗字の代わりに「屋号」が使われたりもしました。「屋号」は商家だけでなく、農家でも使われます。
商家では、「国名・在所名に由来する屋号」「職業名に由来する屋号」「苗字や家紋の由来する屋号」「神仏に由来する屋号」などあり、「〇〇屋」と語尾に「屋」を付けるものが多いようです。
農漁村では「家の地位・所在地・特徴に由来する屋号」「襲名に由来する屋号」がみられます。
 「苗字」「家名」として受け継がれます。 つまり、「家」を相続することは「苗字」を相続することでもあります。
そういう意味では、家系を調べる上において「家名」としての「苗字」は大きな手掛りになります。
 また「家系」は「家の系統」、すなわち「代々の家のつながり」を意味しています。しかしここで注意すべきことがあります。
それは「家系」は必ずしも「血系」を示していないということです。
ご存知ように「家」に相続者がいない場合、女子に婿養子を迎えたり、養嗣子を迎えたりして「家」を存続させます。 その場合、親戚縁者から養子を迎えることが多いのですが、必ずしも血筋にこだわっていません。
何より「家の継承」が第一に考えられ、親族に適任者がいなければ家柄を考慮して他家から養子を迎えることが行われました。
 特異な事例ですが、栃木県南部には「カブタテ」という習俗があります。
「カブタテ」とは破産や相続者がいないなどで“ツブレヤシキ”となった場合、その家や土地、苗字、墓地を譲り受けることをいいます。 つまり、血筋とは関係ない者が「家」、「苗字」を継ぐことになるのです。

 このように「家の継承」が優先される背景には、日本独特の「家」制度があります。
江戸時代の「家」制度を受け継いで作られた明治民法(明治23年公布)では、 「家督相続人ハ ~略~ 系譜、世襲財産、祭具、墓地、商号及び商標は家督相続ノ特権ヲ組成ス」と定められています。 家を受け継ぐ者には家業や財産だけでなく、先祖祭祀に関わる一切のものが引き継がれたわけです。
 坂本龍馬の家系が断絶した時、明治新政府は龍馬の家名存続を決定し、龍馬の姉・千鶴の長男(坂本直)に家名を継がせています。 これは「家」の存続を国家が重視していることが分かる例です。

 明治新政府は近代国家建設の基礎として戸籍編纂を行いました。
明治3年の平民苗字許可令、明治8年の平民苗字必称義務令により、国民は「苗字」を持つことになります。
多くの場合は江戸期の家名を戸籍に登録しましたが、「苗字」が分からない人は僧侶や庄屋に「苗字」をつけてもらいました。
また、これを機会に別の「苗字」にかわった人もいます。
兵役を逃れるために廃家の戸籍を受け継いで戸主となる場合もありました。
そのため、現在の「苗字」と江戸期の「苗字」が異なる場合が少なからずあります。
「苗字」のつながりからみると、明治初期が一つの転換点になります。

苗字の転換期
 この時に生まれた新しい苗字を「明治の新姓」といいます。
「明治の新姓」のパターンをいくつか紹介しましょう。
 1 主家や庄屋(名主)など土地の名家の苗字をもらうケース
    一部落が同姓という地域に多いようです。
 2 庄屋や僧侶などに新しく苗字をつけてもらうケース
    珍姓希姓がうまれやすいようです。
 3 屋号を苗字にするケース
    商家や町屋に多いです。
    「屋」を「谷」にかえることもあります。
    たとえば、米屋が米谷になるように。
 4 僧侶が苗字を持つケース
    仏教用語を使うことが多いです。
 5 分家した方角や本家との位置関係を苗字にするケース
 6 本姓の一字をかえて苗字にするケース

 実はもう一つ戦国時代にも「苗字」の転換期がありました。
戦国時代は古き名家名門が没落し、下級身分の者がその実力と才覚で地位を得た「下剋上」の乱世です。
その武功により、名字を拝領したり、廃家となった重臣の家名を継いだり、 あるいは自ら「株」を買って名字を譲り受けたり、 名字の変遷はまさに家の栄枯盛衰をそのまま示しているといえます。
藩士系図や旧家に残る家伝系図をみると、その辺りがよく分かります。
家祖の記述には家の起こりについて書かれていますが、 苗字が変わっているケースが見受けられます。
家伝系図については「系図について」を参照してください。

苗字で先祖の由来が分かるのか?
 ここでいう先祖とは「家」の先祖を意味し、苗字は「家名」と考えてください。
「家名」には変遷があり、それは「家」の栄枯盛衰とも関係すると述べました。
「苗字(名字)」の由来は『苗字辞典』『家系辞典』によって知ることができます。  しかし必ずしも「苗字の由来」=「先祖の由来」ではありません。多くの方はここを誤解しています。
私自身の先祖も殿様から苗字をいただき「渡辺氏」を名乗りましたが、家祖の苗字は異なります。
「先祖の元の苗字はなんだろう?」
「先祖の由来を知りたい」など
先祖の歴史を知りたい方はお気軽にご相談ください。

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