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 毎年多くの観光客が訪れる「京都」、近年は外国人観光客が増加傾向にあり、その人気は世界基準となりました。 米国の旅行雑誌「Travel+Leisure(トラベル・アンド・レジャー)」誌が発表する世界の魅力的な都市を決める「Top Cities」ランキングでは堂々の世界第1位に輝いています。
 「一度は行ってみたい街 京都」 日本人であれば尚更そう思うでしょう。

 とはいえ京都の観光地といえば歴史的な神社仏閣ぐらいしかありません。
 京都は794年に桓武天皇が平安京を造営するまでは一つの地方都市でしたし、京都より古い歴史を持ち特有の文化がある町は他にもあります。
 いったい何に惹き付けられるのでしょうか。
 昔の都だからでしょうか?
 あるいはその街並や風情、日本的な文化や伝統があるからでしょうか?
 私は日本人としてのルーツが京都にあるからだと考えています。
 先祖の歴史を調べてみると直接的あるいは間接的に京都と関係してきます。ある意味「姓氏とルーツの故郷」といえます。

京の貴族社会

 平安初期、上級貴族の公卿(三位以上)は大和朝廷・平城京以来の多彩な氏族がみられます。 摂関政治全盛期を迎える平安中期では、天皇外戚の藤原氏(藤原北家)と賜姓皇族の源氏がほぼ独占されます。 その背景には、経済的・社会的基盤を持たない当時の貴族にとって政治的権威は天皇との縁戚関係が支えていました。 そのため天皇家との婚姻関係を続けた藤原北家は他氏族を圧倒する権威を有し、政敵の氏族を淘汰し、貴族政治の中枢にあり続けることが出来ました。 これと同様に、天皇と血縁関係が近い賜姓皇族源氏は政治的権威を持つことが可能でした。
一方、かつて公卿を出した名門氏族は下級官人や特定官職・家業を世襲する家として貴族社会に留まることになります。
 院政が朝廷政治の中心となる平安後期になると、伊勢平氏に代表される院近臣が政治的権威を持つようになります。 また政治的地位や官職・職務、邸宅や荘園の経済基盤を父子継承がすることが一般的になると、摂関家に代表される「家」が成立するようになります。
 「家」の成立にともない貴族は従来の氏に代わって「家名」を用いるようになります。「家名」邸宅所在地開創した寺院名などが使われ、鎌倉時代を通じて定着していきます。
 多くの家が成立・分立すると、次第に各家の政治的地位を示す家格が定まってきました。最終的に固定するのは江戸時代のことですが、鎌倉中期には家格秩序が原型が成立します。 摂政・関白を交代で世襲する摂家、大将を兼ねて太政大臣に昇進できる清華家、清華家に準じて大臣に昇進できる大臣家、 近衛中将・少将を経て大中納言に昇進できる羽林家、侍従や弁官を経て大中納言に昇進する名家などが、ほぼ形成されます。

 ところが鎌倉幕府の滅亡と南北朝争乱により、貴族社会はかつてない混乱に陥ります。貴族も幕府側と朝廷側、北朝側と南朝側に分かれ、それまでの家格秩序は破壊され、没落する貴族や盛況となる貴族が現れます。 急成長した貴族としては、足利将軍家と婚姻関係を結んだ藤原北家日野家(家格は名家)や、北朝光厳上皇に仕えた藤原北家勧修寺家(家格は名家)があります。
 また武家政権の確立により、政治的権威と多くの経済基盤を失った貴族社会の停滞・衰退は避けられず、「応仁の乱」以降多くの公卿が諸国へ下向していきます。
一条教房は土佐国幡多荘へ、九条政基は和泉国日根荘へ下向しています。さらに戦国時代末期の永禄年頃には公卿48人のうち17人が京を離れて他国に移っています。 貴族の移住は京の文化・芸能の地方伝播を促すことになります。

 四~五位の中級貴族や受領(現地に赴任する行政責任者)をみると、公卿同様に平安初期は多彩な氏族がみられますが、平安中期には藤原氏源氏の独占傾向が見え始めます。
 多様な氏族がある下級官人では、平安後期に官職・職務が特定の氏族と結合する傾向が強まり、家職として固定化が進むことになります。

 江戸時代の堂上諸家の系譜集である『諸家知譜拙記』によると、藤原氏95家・源氏18家・菅原氏6家・平氏5家・卜部氏4家・清原氏3家・安倍氏2家・大中臣氏1家・丹波氏1家とあります。
 家格をみると、摂家は近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家、清華は久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川・広橋・醍醐の9家、大臣家は中院・正親町三条・三条西の3家です。
 羽林家名家は以下の通りです。
羽林家 名家
藤原氏(北家) 55家 25家
宇多源氏 4家
村上源氏 8家
桓武平氏 3家

 江戸時代の公家の家業をみると、以下の通りです。
 歌道…二条・武者小路・藤谷・入江・日野。
 和歌…三条西・飛鳥井・冷泉・下冷泉・烏丸・富小路。
 …三条・徳大寺・大炊御門・久我・橋本・甘露寺。
 琵琶…西園寺・菊亭・園。  和琴…大炊御門・四辻。
 …花山院・清水谷・松木・四条。  …正親町・四辻・西四辻・薮。
 楽道…松木。  管弦…綾小路。
 神楽…滋野井・清水谷・小倉・四辻・河鰭・阿野・薮・持明院・東園・
  鷲尾・庭田・五辻。
 能楽…清水谷。  蹴鞠…難波・飛鳥井・冷泉・綾小路。
 装束…三条(転法輪)・大炊御門・高倉。  衣紋…山科。
 有職故実…山科・高倉。  膳羞…鷲尾。  包丁…四条。
 能書…清水谷。  書道…飛鳥井・持明院。  筆道…西大路。
 文筆…広橋・柳原。  文章道…小川坊城。  文章博士…高辻。
 華道…園・鷲尾。  俳諧…富小路。  儒道…日野・勘解由小路・甘露寺・
  勧修寺。
 儒学…清岡・桑原。  紀伝…五条・唐橋・東坊城。  明経道…舟橋・伏原。
 陰陽道…土御門・倉橋。  医道…錦小路。

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 参考までに京都に所縁が深い古代氏族を紹介します。
 秦氏… 渡来系の古代氏族。「日本書記」では応神天皇14年に弓月君が百済から百二十県の人を引き連れ帰化したという。秦の始皇帝の末裔とも伝える。
 安倍氏… 第8代孝元天皇の皇子大彦命の子孫。初めは阿部氏という。飛鳥・奈良時代は大臣級の高官を輩出。平安時代は陰陽道の家系として栄え、安倍晴明が有名。
 和気氏… 第11代垂仁天皇の後孫弟彦王が忍熊王を和気関で滅ぼし、その功績で藤原県を与えられ土着。備前・美作に栄え、平安遷都を信玄した和気清麻呂が有名。
 賀茂氏… 八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族。代々賀茂神社に奉斎し山城国葛野郡・愛宕郡を支配。子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となる。
 坂上氏… 後漢霊帝の後裔といわれ、第15代応神天皇の時代に帰化した阿智王(阿智使主)を祖とする。平安初期の武人坂上田村麻呂が有名。
 小野氏… 第5代孝昭天皇の皇子天押帯日子命を祖とする。近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市)周辺を本拠とした。子孫に遣隋使小野妹子や小野篁がいる。武蔵七党の横山氏は小野篁の末裔である。
 伴氏… 天孫降臨時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族。大伴氏であったが、淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて伴氏と改めた。

京の武家社会

 10世紀中頃に起こった「承平・天慶の乱」は、都の貴族を震憾させました。その後、乱の鎮圧に功績のあった平貞盛藤原秀郷源経基の子孫が、中央軍事貴族の家柄を形成していきます。 なかでも源経基の子孫である河内源氏一門は、源頼信源頼義源義家の3代にわたり兵乱鎮定に武功を挙げ、武門の家としての地位を築きます。
 院政期になると、院近臣の伊勢平氏が頭角を現し、平正盛平忠盛と順調に勢力を伸ばします。 「平治の乱」で源義朝を倒した平清盛は、治承3年(1179)に後白河院政を停止し、最初の武家政権を樹立しました。

 続いて「治承・寿永の乱」に勝利した源頼朝が鎌倉に本格的な武家政権鎌倉幕府を成立させます。 幕府は京都に出先機関を設置し、京の貴族社会にも一定の影響力を持ちます。当初京都守護が任にあたりましたが、「承久の乱」後に六波羅探題が設置され、西国御家人と朝廷の監視・京の治安維持が強化されました。
 六波羅探題は北方と南方が置かれ、探題には北条氏が就き、その下に評定衆・引付衆・奉行人などが組織されました。 六波羅評定衆には長井氏・町野氏など、六波羅奉行人には斎藤氏・飯尾氏・雅楽氏などが就きました。 また地方武士が任じられる京都大番役も京の警備にあたりました。

 源氏正統を自認する足利尊氏は、京に幕府(室町幕府)を再興します。しかしながら南北朝内乱もあり政治体制は安定せず、三代将軍足利義満の代にようやく職制も整備されます。  幕政は、幕臣の筆頭として将軍を補佐する管領が統轄し、斯波氏・畠山氏・細川氏が就きました。これに次ぐ家格の山名氏・一色氏・土岐氏・赤松氏・京極氏・上杉氏・伊勢氏を七頭と称されました。 このうち山名氏・一色氏・赤松氏・京極氏の4氏と土岐氏を含めた計5氏が京都奉行職(侍所所司)に就き、伊勢氏は奏者、上杉氏は関東執事(関東管領)に任じられました。
 侍所は御家人の統制・監察の役目でしたが、京洛中の警察・治安維持にもあたります。長官を所司(頭人)、次官を所司代といい、その下に事務官僚である奉行人があり、その筆頭を開闔(かいこう)と称しました。 侍所開闔には、飯尾・治部・布施・松田などの諸氏が任じられました。
 侍所の軍事力は所司の兵力に依存しており、「応仁の乱」以降、所司の軍事力が期待できなくなると、開闔の被官らが洛中の治安維持に従事しました。
 政所の長官である執事には二階堂氏や伊勢氏が就き、将軍家の家産や財政を統括する政所代は伊勢氏の被官蜷川氏が世襲しました。 幕府の実務を担当する奉行人には飯尾・松田・斎藤・矢野・布施・安富・諏訪・中沢・粟飯原などの諸氏が就きました。

 「応仁の乱」以後、幕府の力が大きく減退すると、京都は管領細川氏が支配するところとなります。しかし天文18年(1549)細川晴元を破った三好長慶が頭角を現し、将軍足利義輝を京都より追放し一時期政権を掌握しました。
 永禄11年(1568)織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京すると、これに三好三人衆は抵抗します。しかし強勢を誇る織田軍に相次いで敗退し、三好氏は勢力を失いました。
 続く豊臣秀吉は京都に聚楽第・伏見城を築き、さらに御土居を建設して京都の都市改造を行います。天正14年には関白となり、朝廷から豊臣朝臣を下賜されています。
 徳川家康は二条城を築いて重視しましたが、政治は京都そして朝廷から切り離され、元和元年(1615)「禁中並公家諸法度」の制定により朝廷は幕府の統制下に入ることとなりました。

 江戸時代、徳川家康は「関ヶ原合戦」直後に京都所司代を設置します。朝廷・公家の監視、洛中洛外の警衛、京都諸役人の統率、上方八か国の訴訟処理、西国大名の動静監視など強い権限を持っていました。 板倉勝重重宗父子約50年の在任期間で京都支配の基礎が築かれました。3万石以上の譜代大名から任命され、与力30騎(後50騎)同心100人が付属しました。
京都所司代の下には京都代官が置かれ、皇室・公家領の支配と徴税代行、二条城の管理・修繕、寺社の役料支給などを担当しました。小堀氏が世襲しています。
 京都所司代の職務が過重となってきたため、寛文8年(1668)新たに京都町奉行所が設置されました。東西の奉行所が設置され、1ヶ月ごとに交代する月番制を取りました。 京都町政や畿内天領および寺社領の支配を担当し、与力20騎と同心50人が付属しました。
 また大名の京屋敷が置かれ、寛永14年(1637)時に68の大名屋敷がありました。工芸品などの調達や儀式典礼の知識情報の収集、産物の売り込みや商人との金融取引の役割がありました。
 伏見には伏見奉行が置かれ、伏見の町政や木津川の船舶の取り締まりを行い、京都町奉行とともに西国大名の監視を担いました。

京都に所縁のある氏姓


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