鹿児島県のご先祖調べ

令制国の薩摩国大隅国にあたります。 薩摩国の国府は薩摩川内市大園付近、大隅国の国府は霧島市国分府中付近と推定されています。

戦国期以前の鹿児島県
 中世の鹿児島県の歴史は領国統一に邁進する守護島津氏の内紛と、それに反抗する反島津の諸豪族との戦いの歴史といえます。
 守護島津氏の歴史は文治元年(1185)島津忠久が島津荘下司職に補任されたことに始まります。翌2年地頭職に補任され、建久8年(1197)には守護職を補任されています。 島津荘は日向・大隅・薩摩にまたがる日本一広大な荘園で、忠久の頃は鎌倉に居住し、派遣した一族や在地領主を使って領国統治を行っていました。
 3代島津久経元寇を機に本格的に下向し、以来島津氏による在地支配が推し進められることになります。
 その他、阿多郡には鮫島氏・二階堂氏に下向し、高城郡・東郷別府・入来院・祁答院には渋谷一族が下向しています。


 元弘3年(1333)5代島津貞久は鎌倉幕府討幕のため兵を挙げ、大宰府の鎮西探題を攻め、後醍醐天皇から離反した足利尊氏方に付き、 筑前国の「多々良浜の戦い」で後醍醐天皇方の菊池氏らと戦っています。
貞久の後、薩摩国守護職を3男島津師久に、大隅国守護職を4男島津氏久にそれぞれ分割継承させました。 その後、薩摩の島津師久系は総州家(上総介に任じられたから)、大隅の島津氏久系は奥州家(陸奥守に任じられたから)と呼ばれます。
この頃、九州探題となった今川貞世(了俊)は島津氏から守護職を剥奪し、筑前少弐冬資を謀殺するなど強権的で、総州家師久・奥州家氏久は共に探題勢から離反します。 しかし九州で権勢を誇った今川貞世でしたが、将軍足利義持に脅威と受け取られ解任されました。

 やがて薩摩守護職の総州家島津伊久と嫡子島津守久の間で内紛がおこり、薩摩守護職の奥州家島津元久が調停し落ち着きました。 薩摩・大隅国守護職となった島津元久は、国人の被官化と領国支配をいっそう発展させることになります。
 しかしその後も島津氏の家督をめぐり一族内で対立が続き、反島津氏の国人層を巻き込み、戦闘が続きます。 一族内の抗争は他国勢力の介入を許し、守護権力の弱体化、下剋上による領国収奪が起こるのですが、強力な国人衆や守護大名が無かったことが幸いしてか、島津氏は戦国大名化を成し遂げることが出来ます。

 戦国大名の基礎を作ったのは15代島津貴久と考えられています。
貴久は薩摩国の統一を成し遂げ、名実ともに薩摩国主としての地位を確立、西大隅もほぼ制圧します。 また守護所を清水城(鹿児島市清水町)から、海岸に近い内城(鹿児島市大竜町)に移し本城と定めています。
 島津氏悲願の薩摩・大隅・日向の制圧は嫡男島津義久の代に成し遂げられます。 義久は優秀な弟(島津義弘・歳久・家久)たちに支えられ、精強な家臣団を率いて、大隅・日向の諸豪を次々攻略し、 元亀3年(1572)5月「木崎原の戦い」で日向伊東氏に圧勝し、天正元年(1573)禰寝氏を、翌年には肝付氏伊地知氏を帰順させ大隅国統一も果たします。 ついで天正4年(1576)日向伊東氏の高原城を攻略、伊東義祐は大友宗麟を頼り豊後へ逃走、日向国も島津氏の支配地となります。
 伊東義祐の要請で出陣した豊後大友軍を天正6年「耳川の戦い」で撃破し、天正9年(1581)球磨相良氏を破り肥後国南部を領国化することに成功します。
 九州制覇の野心に燃える島津氏はさらに北進し、天正12年「沖田畷の戦い」で肥前龍造寺氏を撃ち破り、これにより肥後の諸豪は次々と島津氏に服属し肥後国の制圧を成し遂げました。

 この危機に豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めます。秀吉は九州での戦争を禁じ、大友氏との和平を命じます。 しかし勢いに乗る島津氏はこれを拒否し、天正14年(1586)島津義久は筑前・筑後国、そして豊後国への進撃を開始します。 筑前の戦いでは高橋紹運の岩屋城・立花宗茂の立花城の攻防で苦戦し、多くの将兵を失いますが、豊臣軍先発隊との合戦(戸次川の戦い)で大勝しました。

 天正15年(1587)豊臣秀吉が九州制圧に出陣し、秀吉の弟豊臣秀長が率いる毛利・小早川・宇喜多氏など軍勢が豊後・日向国経由で南下、 豊臣秀吉が率いる10万の軍勢が肥後経由で進軍しました。秀吉の進軍に九州の国人衆は次々と降伏し、薩摩へ撤退した島津義久は剃髪し、秀吉と会見し降伏しました。
 これにより九州の戦国時代は終焉し、薩摩・大隅両国は秀吉政権の支配下に入ることになりました。

鹿児島県の名字
 戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。
 以下は鹿児島県発祥の名字です。ただし名字の出自や由緒には諸説あり、すべては網羅できておりません。参考の一つにしてください。

 守護島津氏が領有した薩摩・大隅・日向国は、朝廷権力が浸透しない遠国であり、未開地も多かったことから「郡」という行政単位は発達せず、 「郷」「荘園」ごとに倉院(租税を納める倉庫を主管する役所)が置かれ、院司は派遣され統括しました。 は国衙領の郷や郡、私領の荘園の相当し、名字になった伊集院・入来院・祁答院などが知られています。
独特な地名が多い分、鹿児島県にしか無い名字もたくさんあります。
 では戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。以下は鹿児島県発祥の名字です。 この苗字であれば比較的ルーツを探しやすいと思われます。

 まず薩摩国をみてみます。
鎌倉時代に現れる大族は、在庁官人の大前(おおくま)氏大蔵氏、桓武平氏の伊作(伊佐)氏・渋谷氏、大隅の伴姓肝付氏などがあります。
大前氏流…祁答院・東郷・富光・湯田・寺田・中津川・時吉・瀧聞・大村・斧淵・山田・荒川・今村・藤川
伊作氏流…河辺・頴娃・給黎・別府・揖宿・知覧・串木野
渋谷氏流…祁答院・東郷・中津川・平川・山崎・藺弁田・大村・入来院・鶴田・岡本・副田・高城
肝付氏流…武光・和泉
新田八幡宮執印職の惟宗姓の執印氏流…羽島・中島・国分・橋口・鹿児島・羽鳥・五代・川原・市来・河股・松村・上松
その他に紀姓の宮里・伊集院・中川・久富氏、太秦姓の牛屎・淵辺・羽月・山野・井手籠・大田・入山・篠原・赤田氏、 阿多郡の二階堂・鮫島氏、谷山郡の谷山氏、日置郡の比志嶋氏、菱刈郡の菱刈・曽木氏、甑島の小川氏 の諸氏があります。

 次に大隅国をみてみます。
多くの庶流を輩出した大族は、肝属郡におこる伴姓肝付氏、建部宿祢姓建部(たけべ)氏、大隅郡禰寝におこる禰寝(ねじめ)氏、霧島神社社家の檜前姓税所(さいしょ)氏、姶羅郡蒲生院におこるです。 肝付氏流…萩原・安楽・和泉・梅北・救仁郷・検見崎・岸良・野崎・小野田・河南・鹿屋・橋口・山下・川北・頴娃(えの)・加治木・津曲(つまがり)
建部氏流…税所・田所・佐多・田代
建部姓禰寝氏流…佐多・松沢・小松・宮原・川窪・西本・在留・野間・丸嶺・今村・嶺崎・七目木・角・池端・山本・北・島浜・竹崎・野久尾・堀内
藤原姓禰寝氏流…富山・郡本・浜田・横山・大姶良・宍目
檜前姓税所氏流…重枝・重久・最勝寺・上野・野添・白坂
藤原姓蒲生氏流…脇元・永山・開佐良・沙汰浦・北村・二階・木佐木・西俣
その他に桑原郡の酒井氏・隈本氏、姶羅郡の平山氏・脇本氏、小河郡の小河氏、桑東郡の木房氏・帖佐(ちょうさ)氏・栗野氏、 曽於郡の嶋氏・敷根氏・廻氏、肝属郡の守屋氏、種子島の種子島氏、などの諸氏があります。

 鹿児島県の苗字ベスト20位をあげると、以下の通りです。
1中村 2山下 3田中 4前田 5東 6山口 7川畑 8池田 9浜田 10松元
11西 12久保 13日高 14有村 15森 16坂元 17橋口 18今村 19上村 20上野

西日本を代表する中村・田中・山本・松元(本)が上位にあります。
 鹿児島県の名字の特徴の一つとして、伊集院の「院」、松元の「元」、大迫の「迫」、中園の「園(薗)」が付く苗字が多いことがあげられます。 その他にも「留」や「○之内」などが見られます。
旧薩摩藩領の庶民の苗字は、農民組織の基本単位に由来する場合が多く、出身地に苗字と同じ門名があれば可能性が高いです。 名子の場合は門名の一字に別の文字を添えて苗字する者や、郷士の奉公人の場合は主家の苗字を一字使う者もいました。

江戸時代の鹿児島県
 江戸時代、薩摩藩は薩摩・大隅国および日向国諸県郡の大部分を治め、さらに琉球王国を支配下に置いていました。
藩主島津家は「関ヶ原の戦い」で西軍に付きましたが、井伊直政の取りなしもあり、本領が安堵され島津家久が藩主として認められました。
 薩摩藩は近世以前の支配体制を継承した外城制を敷き、領内の農山漁村や町場の統治を行いました。 外城制では、地頭仮屋を中心に半農半士の武士(郷士)が集団居住(麓集落)し、さらに農村にも居住して普段は農民と同じく農作業を行いました。
外城行政の長は鹿児島城下の居住する地頭ですが、実質的は上級郷士(あつかい・組頭・横目の麓三役)が担いました。
外城は、薩摩国に49ヶ所、大隅国に41ヶ所、日向国に21ヶ所あり、領内に多くの武士が分散居住していたことが分かります。 全国平均の武士人口比が約5%とされるなか、薩摩藩の武士は人口比26%(明治4年調査)といいますから武士の多さが際立ちます。
 薩摩藩家臣の家格は、弘化3年(1846)頃で御一門四家(重富島津家・加治木島津家・垂水島津家・今和泉島津家)、 一所持(29家)、一所持格(12家)、寄合(52家)、寄合並(10家)、以上は家老を出すことができる上士層です。
続いて無格(2家)、小番(760家)、新番(24家)、御小姓与(6146家)、与力があり、さらにその下に准士分の足軽がいました。
ちなみに明治維新の立役者西郷家・大久保家の家格は下から2番目の御小姓与でした。

 家格を重んじる薩摩藩において、在村の郷士といえども家系図を持っていました。まずは分限帳とあわせて確認することをお勧めします。

鹿児島県の家紋
 鹿児島県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、鹿児島県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 鷹の羽 2位 梅鉢 3位 桔梗 4位 桐 5位 茗荷
6位 目結 7位 蔦 8位 柏 9位 木瓜 10位 菱・花菱

 日本の十大家紋と比べると、沢潟紋橘紋藤紋片喰紋がランク外となり、 かわりに梅鉢紋桔梗紋目結紋柏紋がランク入りしています。
梅鉢紋が多いのは天神信仰に由来すると思われます。
薩摩藩主島津氏の家紋丸に十字紋は少なく、島津氏庶流では変形した図柄で使用されています。 「見聞諸家紋」では「丸」が無く、筆書体の「十字紋」となっています。 島津氏の「十字紋」について諸説ありますが、「十字を切る」という呪符的な意味から使用したとの説が有力といいます。

鹿児島県の寺院
 鹿児島県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、鹿児島県の宗派別の割合は以下の通りです。

  県西部
(旧薩摩国)
県東部
(旧大隅国)
天台宗 1% 1%
真言宗 4% 3%
曹洞宗 4% 1%
臨済宗 11% 4%
浄土宗 2% 5%
浄土真宗 71% 68%
日蓮宗 1% 2%
その他他 6% 16%
 鹿児島県全体を通して真宗寺院の多く、対してその他宗派の寺院の少なさが際立ちます。
これは幕末維新期の断行された廃仏毀釈運動が大きく関係しています。

 <薩摩藩の廃仏毀釈>
 平田篤胤らの神道思想の影響や軍備の充実が強く叫ばれる中、一部の藩士から「今の時勢に寺院は無用。寺禄は軍用に、仏具は武器にしろ」と主張がおこります。 藩上層部もこれに共鳴、ついに寺院廃止と僧侶還俗を決意しました。
その準備中に明治維新を迎え、新政府は神仏習合の慣習を廃し、神道と仏教をはっきり区別する神仏分離(慶応4年3月神仏判然令)を行います。
それは仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、かねてから廃仏計画を練っていた薩摩藩では破竹の勢いで廃仏が実施されることになります。
結果、領内の寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼったといい、没収された寺院の宝物や建物は金銭にかえられ、梵鐘や仏像などは兵器鋳造に利用されました。

 その後、明治9年(1876)9月に信仰の自由が認められ、仏教が復権することになります。(明治5年3月解禁ともいう)
薩摩藩において一向宗(浄土真宗)はキリスト教同様に禁教でしたが、 その信仰心は領民に深く浸透し、「隠れ門徒」として篤い信心を行う信者もいました。
明治になり信仰の自由が認められると、真宗教団の熱心な布教により各地に道場が作られ、寺院化していくことになります。 それが鹿児島県の真宗寺院の多さにつながっていきます。

鹿児島県の神社
 薩摩国一之宮は新田神社です。薩摩川内市にあります。元々枚聞神社(指宿市)が一之宮でしたが、守護島津氏の崇敬を受けて新田神社も一之宮となったといいます。
 主祭神は天津日高彦火邇邇杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)、天照大神の孫になります。
 社伝では、葦原中国に天孫降臨した邇邇杵尊(ニニギノミコト)の御陵可愛山陵(エノサンリョウ)に面して創建されたといいます。 ※可愛山陵の治定地は諸説あります。
 神社筆頭職の執印職は惟宗姓執印氏が世襲し、新田神社社家を統率しました。

 大隅国一之宮は鹿児島神宮です。霧島市隼人町にあります。
 主祭神は山幸彦として知られる天津日高彦穗穗出見尊(あまつひこひこほほでみのみこと)その后神豊玉姫命です。
 社伝では、彦穗穗出見尊の宮殿高千穂宮を神社としたものとされています。平安時代に八幡神が合祀され「正八幡宮」「大隅八幡宮」などとも称されました。
 旧社家は桑幡氏・沢氏・留守氏・最勝寺氏の4氏が世襲し、統括する立場にありました。


※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。
 参考の一つにしてください。
 また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。

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