石川県のご先祖調べ

令制国の加賀国能登国に相当します。
当初、越前国に含まれていましたが、養老2年に能登国、弘仁14年に加賀国を分立し、領域が定まります。

戦国期以前の石川県
 南北朝時代、加賀国は足利尊氏に従い活躍した冨樫氏が守護に任じられます。冨樫氏は富樫郷(石川県金沢市)に起こる在地豪族で、利仁流藤原氏ともいいます。
 冨樫昌家が死去すると、管領斯波義将の弟斯波義種が加賀国守護に任ぜられます。 応永21年(1414)斯波氏が失脚すると、再び冨樫氏が守護に復帰し、以後冨樫氏が加賀国守護を歴任します。
 しかし嘉吉期になると守護職をめぐって冨樫氏に内紛が起こります。 寛正5年(1464)冨樫政親の守護就任で、ひとまず深刻な一族対立は解消されましたが、 続く「応仁の乱」の勃発により再び一族が東軍細川方・西軍山名方に分かれて争うことになります。

 中央の政局に振り回され、冨樫氏は徐々に求心力を失っていきます。 そこで冨樫政親は北陸に教線を伸ばす本願寺勢力を味方に引き入れ、反抗勢力を破り、加賀半国を掌握することに成功します。 ところが本願寺との同盟関係が破たんすると、冨樫氏は本願寺一揆衆の弾圧に動き出します。 武力を手に入れた一揆衆は勢いを増し、守護権力との対決姿勢を鮮明にしました。
 長享2年(1488)一揆衆は政親の居城高尾城を20万ともいう大軍で襲い、滅ぼしてしまいます。 以後も冨樫氏が守護職に就きましたが、名目的なもので、実権は門徒一揆衆が掌握していました。 本願寺は尾山御坊(金沢御坊)を拠点に、約100年にわたり加賀国を支配、「百姓の持ちたる国」と呼ばれました。

 天正元年(1573)越前国を攻略した織田信長は続けて加賀国へ侵攻しました。本願寺は上杉謙信との同盟を模索しますが、 謙信の死去によって織田軍の猛攻に抵抗する術を失い、天正8年(1580)佐久間勢によって金沢御坊が陥落、天正10年までに一揆勢は掃討されました。

 能登国では明徳2年(1391)管領畠山基国が守護職となって以降、畠山氏が歴任し、守護代として遊佐氏をおきます。
 「応仁の乱」が起こると畠山義統は西軍山名方につき、京の騒乱が一段落すると能登に戻り在国支配に専念します。この間、一向一揆勢と戦い能登への拡大を防いでいます。
 七尾城を築城し、領国統治に実績を残した畠山義総が死去し、畠山義続が守護になると、有力被官の遊佐氏温井氏などが台頭し始めます。 畠山七人衆と呼ばれる重臣らは国政を掌握し、守護は傀儡となります。
   畠山七人衆・・・伊丹氏、平氏、長氏、温井氏、三宅氏、遊佐氏、飯川氏
 畠山七人衆のなかで勢力争いが起こる、遊佐続光は上杉謙信に内応、一方長続連は織田信長に接近します。
 天正9年(1580)織田信長によって能登国が制圧されると、前田利家が七尾城に入りました。

石川県の名字
 戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。
 ただし名字の出自や由緒には諸説あり、すべては網羅できておりません。参考の一つにしてください。

 まず加賀国からみてみます。
 加賀国には越前・能登にも広がった齋藤氏族が栄えます。加賀の齋藤氏は鎮守府将軍藤原利仁の子叙用の孫で加賀介忠頼を祖とします。 加賀齋藤氏は、その後林氏冨樫氏の二大勢力に分かれ繁栄します。
 林氏は石川郡拝師郷に起こり、 安田・山上・横江・近岡・大桑・佐貫・豊田・松任・板津・白江・倉光・宮武・宮永・弘岡などの苗字を分出します。
 冨樫氏は石川郡富樫郷に起こり、前述したように守護大名として成長します。 分出した苗字には、額田・山川・額・前野・狩野・小松・大桑・安江・久安などがあります。
 「応仁の乱」後、冨樫氏の内紛が起こった際の両派の被官は以下の通りです。
   冨樫政親の被官・・・山川・本折・槻橋
   冨樫幸千代の被官・・・額・小杉・沢井・阿曽・狩野
 また齋藤景道は「加賀介」にちなみ加藤氏を称しています。その孫加藤景廉は源頼朝の挙兵に加わり鎌倉幕府創立に貢献、鎌倉御家人となっています。その後この系統は諸国に広がることになります。
 加賀郡には津幡氏井家氏が起こります。
 江沼郡には地頭狩野氏が入り、福田・若松・敷地・山岸・上木の諸氏を分出しています。また越前の河合齋藤氏族である大見氏も地頭になっています。 この他に八幡氏があります。
 能美郡には河原氏加藤氏、河北郡には西郡氏がいました。
 戦国後期、門徒一揆衆が加賀国を席巻します。一揆衆は本願寺坊官の下間氏が指導者に立ち、 鏑木・洲崎・安吉・河合・石黒・笠間・宇津呂・山本・高橋・越智・窪田・安井・黒瀬・坪坂・杉浦・七里・亀田などの国人・地侍が味方しました。

 次に能登国をみてみます。
 能登国にも齋藤氏族が広がります。能登の齋藤氏齋藤則高の末裔とされ、 太田・堀・石黒・河崎・藤井・富木の諸氏を分出しています。
 能登で勢力を拡大した氏族に畠山七人衆の一つで、能登穴水城主の長氏(長谷部氏)があります。 一族には、宇留地・此木・上野・阿岸・山田・仁岸・是清の諸氏があります。
 鹿島郡には、武部氏酒井氏高畠氏三階氏熊木氏天野氏があります。
 羽咋郡には、土田氏得田氏粟生氏があります。
 鳳至郡には、諸橋氏四柳氏日詰氏時国氏があります。
 珠洲郡には、日置氏則貞氏があります。
 畠山七人衆以外の守護畠山氏の被官には、松波・神保・佐脇・誉田・高田・弥郡・筒井・井上・寺岡・隠岐・笠松・小林などの諸氏があります。

 石川県の苗字ベスト20位をあげると、以下の通りです。
1山本 2中村 3田中 4吉田 5山田 6林 7中川 8松本 9山下 10山崎
11橋本 12山口 13東 14中田 15清水 16南 17池田 18北村 19宮本 20西田

 石川県の名字は西日本的な特徴を示しています。
 福井県と同じく「田」の付く苗字が多く、 「山」「林」「川」などの自然地名や、集落をしめす「村」の付く苗字も多くみられます。 さらに「東」「南」の方位の付く苗字もみらます。 苗字に農耕社会・文化の影響があらわれていることが分かります。
「百姓の持ちたる国」と呼ばれるほど勢力を持った一向宗徒らの影響かも知れません。

江戸時代の石川県
 「関ヶ原の合戦」で東軍徳川家康に付いた前田利家の嫡男前田利長は加賀国・能登国・越中国を与えられ、最大石高120万石を領す加賀藩の藩主となります。 しかし前田家は豊臣恩顧の外様大名、いつ取り潰されるか分かりません。 3代藩主前田利常は将軍徳川秀忠の娘・珠姫を正室に迎え、また「大坂の陣」では先鋒として戦い、徳川大名として認められる活躍をしています。
 利常の後、長男前田光高が4代加賀藩主となり、次男前田利次富山藩10万石を、三男の前田利治大聖寺藩7万石を分封されました。

 加賀藩独特の農政制度として十村制があります。
 前田利家は加賀国を統治するにあたり、抵抗する一向一揆を鎮圧し、数多くの門徒衆を処刑したといわれています。 父祖を殺戮された記憶を持つ領民たちです。もし大規模な一揆が起これば、幕府から藩の運営能力を問われ、減封改易になるかもしれません。そのため年貢徴収など農村支配には神経を使いました。
 そこで有力な農民を十村として、農村の監督・徴税の責任者として任命しています。これは一向一揆の監視対策も兼ねていました。
 さらに改作法を実施して、農業生産性向上と年貢納入の徹底だけでなく、貧農の救済にも意を注ぎました。これらの政策は成果を挙げ、藩政の安定に寄与しました。
 次いで産業の振興、学問や文芸の興隆に力を注ぎ、城下町金沢を中心として今に続く伝統文化芸術が発展しました。

石川県の家紋
 石川県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、石川県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 蔦 2位 木瓜 3位 片喰 4位 桐 5位 柏
6位 橘 7位 桔梗 8位 鷹の羽 9位 藤 10位 菱・花菱

 日本の十大家紋と比べると、茗荷紋沢潟紋がランク外となり、かわりに桔梗紋菱・花菱紋がランク入りしています。
 石川県の家紋は、蔦紋木瓜紋の比率が高い特徴があります。
 福井県で見たように、木瓜紋は越前朝倉氏の定紋であり、一向宗門徒の多くが木瓜紋を使用したといいます。 蔦紋は能登地域に多いようです。
 一方、多地域に多い鷹の羽紋藤紋梅鉢紋は少数派です。 梅鉢紋は藩主前田家の定紋であることから、一般人が使用を避けたと考えられます。

石川県の寺院
 石川県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、石川県の宗派別の割合は以下の通りです。

  能登
(輪島・能登など)
加賀
(金沢・小松など)
天台宗 1%以下 1%
真言宗 9% 5%
曹洞宗 6% 9%
臨済宗 1% 1%
浄土宗 2% 4%
浄土真宗 76% 70%
日蓮宗 6% 8%
その他 1%以下 2%
 真宗王国である石川県は福井県と同じく真宗寺院が多数派で実に70%を超えます。
 「応仁の乱」の頃より農民らに広まった浄土真宗は尾山御坊(金沢市)を建立、ここを拠点に反権力運動を発展させます。 守護職富樫政親を追放すると、一向宗徒らによる統治を行い、「百姓の持ちたる国」と呼ばれるほどになります。
 これに対して他地域では多数派の真言宗寺院や曹洞宗寺院が少ないのが特徴的です。 曹洞宗寺院も一向宗徒に押されたためか永平寺の影響力は弱かったようです。

石川県の神社
 加賀国一之宮は白山市の白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)、全国に3000社という白山神社の総本社です。
 主祭神は白山比淘蜷_こと、菊理媛尊(くくりひめのみこと)です。 黄泉の国との境界で伊弉諾尊・伊弉冉尊が対峙した時、仲裁をした神様です。 伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られています。
 背後にそびえる白山を神体山として、山頂には奥宮も鎮座しています。
 白山は日本三霊山の一つとして、古代から崇敬され、崇神天皇御代に白山を遥拝する社が創建され、霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に社殿が造立されたと伝わります。
 養老元年(717)に僧泰澄が白山に登って開山。御前峰に奥宮が創建されました。以来、白山信仰は全国に広まり、登拝の入口となる加賀・越前・美濃(岐阜県)には拠点の馬場(ばんば)が設けられ、多くの人々で賑いました。
 文明12年(1480)の大火で全焼し、末社三宮が鎮座する現地に遷座しました。
 社家には上道氏、守部氏、椋氏があります。

 能登国一之宮は羽咋市の気多神社です。
 主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)大国主命として知られる出雲大社の祭神です。
 社伝には、孝元天皇御代に大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたといいます。


※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。
 参考の一つにしてください。
 また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。

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