富山県のご先祖調べ

令制国の越中国に相当します。
天平13年に能登国を併合しましたが、天平宝字元年(757)再び分立しています。

戦国期以前の富山県
 建武政権樹立を目指した後醍醐天皇は恒性親王を下向させます。 恒性親王は「越中之宮」と呼ばれ、在地土豪宮崎氏が迎え入れます。 その恒性親王は暗殺されますが、越中国は宮方(南朝)勢力の強い地域となり、宗良親王も一時期滞在しています。
 そこに「観応の擾乱」がおこり足利政権が分裂すると、南朝方はこれを利用し、越中の在地領主と守護桃井直常は足利直冬(直義の養子)方に付き、足利政権に反旗を翻します。 幕府は守護に斯波氏、そして畠山氏を入れ、越中国の平定に取りかかります。
 管領職でもある畠山基国が越中国守護になると、神保氏遊佐氏椎名氏を郡代として安定化させてます。

 以降、越中国は畠山氏が守護職を継承しますが、畠山義就政長の時に「応仁の乱」が起こります。
 守護畠山氏は在京し、かつ将軍家や重臣間の権力抗争や内紛に明け暮れていたため、越中領国の支配は守護代神保氏椎名氏が担当していました。 しかし両者とも戦国大名化するほどの力を持てず、さらに一向一揆が勢力を強めたことで、越中国では戦国大名による強い支配政権は登場出来ませんでした。
 むしろ神保氏一向一揆勢と結びつき、越中国での権勢を強めようとしました。
 「明応の政変」により将軍職を追われた10代将軍足利義材が神保長誠を頼り越中へ下向します。神保氏が強い勢力基盤を持っていたことが分かります。
 永正3年(1506)守護畠山氏の要請を受けた越後守護代長尾氏が越中に出兵します。 ところが一向一揆・神保氏連合軍に敗れ、以後越後長尾氏神保氏そして一向一揆勢との間で長期にわたって抗争を続けることになります。

 天文年間に入ると、富山城の神保長職と松倉城(魚津市)の椎名康胤が越中の覇権をめぐって争います。 椎名氏は越後上杉謙信を後ろ盾にしたため、神保氏は甲斐武田信玄そして一向一揆と結び対抗し、越中の争乱はさながら上杉・武田の代理戦争という形になっていました。
 永禄3年(1560)と永禄9年の戦いで、上杉謙信に大敗した神保氏が勢力を失いと、代わって椎名氏が台頭します。 それまで上杉方であった椎名康胤は武田信玄の謀略もあり、武田氏・一向一揆勢に付き上杉氏に反逆しました。
 上杉謙信は数度にわたり椎名氏追討の兵を差し向けますが、武田氏の介入により椎名氏を攻め滅ぼすに至りませんでした。

 武田信玄、上杉謙信が亡くなると、越中国には織田信長が侵攻してきました。 謙信の後継者を争って上杉景勝と上杉景虎による内争(御館の乱)が起こると、織田信長は上杉領に侵攻、天正10年(1582)3月には富山城を落し、6月には北東部の要衝の魚津城を陥落させました。
 ところが6月2日信長が「本能寺の変」で自害すると、織田勢主力の柴田軍は撤兵、越中国は佐々成政が統治に当たることとなります。
 反秀吉の行動をとった佐々成政は、天正13年(1585)豊臣秀吉に攻められ降伏、越中国の大半は前田利家利長父子に与えられました。

富山県の名字
 戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。
 ただし名字の出自や由緒には諸説あり、すべては網羅できておりません。参考の一つにしてください。

 射水郡放生津を本拠に越中守護代として勢力をもった神保氏は惟宗氏流で、上野国多胡郡神保邑が名字発祥の地といいます。
 新川郡松倉を本拠とした椎名氏は桓武平氏千葉氏流と伝え、戦国期に神保氏と覇を競います。
 砺波郡石黒郷からは、利仁流藤原氏あるいは武内宿禰の後裔利波氏流とも伝える石黒氏が武士団を形成し発展します。 また蟹谷庄から起こる蟹谷氏、才川城主近岡氏、太美城主太美氏があります。 この他に大屋・院林・松永・日河原・矢野・松野・畑・高桑・石坂・遠依・草野の諸氏があります。
 新川郡には宮崎氏が起こります。その他に土肥氏がいます。
 婦負郡には斎藤氏が勢力を持ちます。その他に、轡田氏がいます。
 射水郡には浦壁氏姫野氏嶋倉氏保田氏福田氏狩野氏がいます。

 富山県の苗字ベスト20位をあげると、以下の通りです。
1山本 2林 3吉田 4中村 5山田 6山崎 7田中 8中川 9清水 10酒井
11高田 12中田 13前田 14中島 15高橋 16松井 17藤井 18山口 19森 20加藤

 富山県の名字は西日本的な特徴を示しています。
 石川県と同じく「田」の付く苗字、 「山」「林」「川」などの自然地名の付く苗字が多く、 さらに「中」「前」の位置関係の付く苗字もみらます。 苗字に農耕社会・文化の影響があらわれていることが分かります。

江戸時代の富山県
 「関ヶ原の合戦」で東軍徳川家康に付いた前田利家の嫡男前田利長は加賀国・能登国・越中国を与えられ、最大石高120万石を領す加賀藩の藩主となります。 3代藩主前田利常は将軍徳川秀忠の娘・珠姫を正室に迎え、また「大坂の陣」では先鋒として戦い、徳川大名として認められる活躍をしています。
 利常の後、長男前田光高が4代加賀藩主となり、次男前田利次富山藩10万石を、三男の前田利治大聖寺藩7万石を分封されました。

 富山藩領は、越中国婦負郡・新川郡黒部川西岸・富山町周辺・加賀国能美郡手取川南岸(のちに新川郡舟橋・水橋と交換)です。
 富山藩の農政には加賀藩と同じく十村制、さらに改作法があります。

富山県の家紋
 富山県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、富山県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 木瓜 2位 片喰 3位 柏 4位 蔦 5位 鷹の羽
6位 茗荷 7位 菱・花菱 8位 桔梗 9位 藤 10位 竹笹

 日本の十大家紋と比べると、桐紋沢潟紋橘紋がランク外となり、かわりに桔梗紋菱・花菱紋竹笹紋がランク入りしています。
 富山県の家紋は、木瓜紋の比率が高い特徴があります。
 木瓜紋は一向宗門徒の多くが使用したといいます。 蔦紋は能登地域に多いようです。
 一方、多地域に多い梅鉢紋は藩主前田家の定紋であることから、一般人が使用を避けたと考えられます。

富山県の寺院
 富山県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、富山県の宗派別の割合は以下の通りです。

  東部
(富山・魚津など)
西部
(高岡・砺波など)
天台宗 1%以下 0%
真言宗 6% 5%
曹洞宗 15% 11%
臨済宗 1%以下 2%
浄土宗 5% 6%
浄土真宗 68% 73%
日蓮宗 2% 1%
その他 2% 2%
 真宗王国である富山県は石川県と同じく真宗寺院が多数派で70%近くあります。
 親鸞上人から越中への布教を託された直弟子「越中三坊主」が力強い布教を行い、 これを種にして浄土真宗は越中国に広がっていきます。
 これに対して他地域では多数派の真言宗寺院や曹洞宗寺院が少ないのが特徴的です。 曹洞宗寺院も一向宗徒に押されたためか永平寺の影響力は弱かったようです。

富山県の神社
 越中国一之宮は、能登国分立後に石川県羽咋市の気多神社(能登国一之宮)から、高岡市の射水神社となります。
 主祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)です。
 その後、能登国一之宮気多神社から分祀した高岡市の気多神社が一之宮に返り咲きますが次第に社勢は衰え、 国府が砺波郡に移された関係から砺波郡の高瀬神社が一之宮を名乗ります。
 主祭神は大己貴命(大国主命)です。
 大己貴命が北陸平定を終えて出雲へ戻る時に、国魂神として自身の御魂をこの地に鎮め置いたのに始まると伝えられています。


※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。
 参考の一つにしてください。
 また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。

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