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ノンフィクションの家系史・私の場合

■ルーツ探検へ
 まず父親や親戚の叔父・叔母から先祖に関する伝承を集めました。
かつては武士であったこと、先祖は藩祖と関係があったこと、地元の名士であったことなどが少しづつ見えてきました。
しかし本家や親戚に家系図や由緒書が残されていませんし、ほとんど伝承の域をでません。
 次に役場で戸籍・除籍謄本の取得にとりかかりました。 取得できた戸籍は除籍謄本1通と原戸籍2通、最も古いものは明治19年式戸籍簿でしたが、4代さかのぼるのがやっとで、 伝承の人物には到底たどりつきません。
頼みの菩提寺は火災で寺過去帳などの古記録がありません。 そのためか本家の仏壇にも江戸時代のご先祖様の位牌や過去帳が納められていません。
しかも当地域は納骨堂建設をすすめため、各家の墓地はなく、古い墓石を処分し残っていないのです。
ここまでで明治時代まで先祖は分かりますが、とても満足できるものではありませんでした。
 これを読まれている方も同じ状況にあるのではないでしょうか?
ご依頼されてくるお客様の調査もほとんどがここからの出発です。

■ある郷土史との出会い
イメージ  父親から「うちには南米に開拓移民へ行った先祖がいる」「祖父の代までは手紙のやり取りがあった」とも聞いていました。
しかし、除籍謄本を見ても開拓移民へ向かった先祖の記録がありません。

 それから月日が経って、帰省した時に地元の公共図書館を訪れました。 そこで偶然手にした郷土史料に南米開拓移民へ行った先祖の名前を見つけることが出来たのです。 しかも、その資料には南米に渡って以後の系図まで書いてあります。
これが伝承の確認がとれた最初の資料でした。「これはご先祖様の導きだ」と感動したことはいうまでもありません。

 依頼を受けた調査も「偶然の出会い」に何度も助けられました。ここまで助けられると必然としか言いようがありません。
この「偶然の出会い」こそが“ルーツ探検”の醍醐味でもあります。

■古い墓地の発見
イメージ  父親の記憶を頼りにご先祖様の古い墓地の痕跡を探しました。
菩提寺の裏山をのぼり、人が通ることが無いだろう山道を進むと山道の片隅に墓石群がみつかりました。 そこは草木がうっそうと茂り、誰も訪れていないことが一目で分かります。
江戸後期の墓石には文字を確認でき、それが渡辺家一門の墓地であることが教えてくれました。

 新しい墓地(納骨堂)を造った場合、古い墓石は忘れ去られることが多いのです。
もちろん魂抜きはされていますが、ここに先祖が眠っていたと思うと幾分さびしい気持ちになります。
丁寧に一つ一つの墓石を判読し、亡き先祖に感謝しながら筆写しました。
この地に生まれ育った父親でさえ、記憶があいまいというのですから、 この時発見できなかったら以後は分からなかっただろうと思います。
古い記憶や伝承はいずれ失っていく、この時まざまざと実感しました。

 墓地の調査は最も先祖を感じることが出来きます。
よく「怖くないですか?」と聞かれることがあります。 幸い霊が見えることはありません。霊的感性が鈍いのが幸いしているようです。 そんな私でも、供養の行き届いた墓地はとても気持ちが良く、 滅多に訪れる人がいない墓地はさびしい気持ちにさせられます。

藩士系図との出会い…「先祖の伝承は正しかった」
 楽しみながら執念を持つことが「ルーツ探検」の秘訣です。
大本家にあたる旧家を特定でき、いよいよ先祖の伝承が真実味を増してきましたが、 そこは裏付けを取ってこそ伝承の価値が深まります。さらに史料を探し求めました。

イメージ  私の故郷・久留米には久留米藩の藩士史料が残されています。
久留米藩関係の史料を丹念に調べると藩士系図集の中に先祖の系図を発見しました。
ワクワクしながら読み進めます。まさに歴史探偵のような気分です。

 系図は目的を持って作られていますが、「藩士系図」の場合は藩主との関係性に重点が置かれています。
先祖の履歴書といえる家系図は藩における役割や地位にもつながってくるからです。
渡辺家の場合、家祖渡辺弥兵衞の出生地、久留米藩主有馬公に仕えるまでの経歴、 藩内での役職や家禄、菩提寺や墓地の場所まで様々なことが分かりました。
さらに系図の中には織田信長・豊臣秀吉の名前まで書かれています。
歴史上の人物がテレビや書籍の中にではなく、私の歴史の中に登場するのです。
これほど歴史が身近に感じられることはありません。

■先祖の足跡を訪ねて
イメージ  後日、先祖の菩提寺を訪ねて墓参りをしました。
武家だけにお城に近い、寺町の一画にそのお寺はありました。 実家の宗旨と異なることに驚きましたが、それ以上に墓石の大きさにびっくりしました。
すべての墓石が人の背丈ほどあり、それはふつうの家柄で無いことを思わせるに十分でした。
早速、お寺のご住職に話を伺うため庫裡を訪ねました。
ご住職は「家老の渡邊家のことかね」と聞き返されると、ご存知のことを色々を教えてくださりました。 その話はすべて初めて聞くことばかりで、親戚は誰ひとり知らない内容です。
私は不思議な使命感も加わり、さらなる探究心に火が付きました。

 大本家の末裔の方の連絡先をご住職に無理を言って教えていただき、手紙を書きました。
しばらくして返信があり、そこには系図書の写しと新情報を書かれていました。
驚いたことに大本家は藩命で京屋敷に赴任し、そこで亡くなり墓石も京都の寺にあるといいます。
さらに系図書を確認すると、京都に所縁のある人物が幾人も出てきます。
不思議と今なお京都に住んでいる理由が納得してしまいます。

系図

■妻のご先祖様とのつながり
 妻の生まれは愛知県ですが、そのルーツは信濃国、現在の長野県南部になります。
本家は戦国時代から続き、18代目という地元有数の旧家です。 戦国時代は地侍として、地域のリーダーであったことは間違いありません。

 一方、私の渡辺弥兵衞は尾張国、現在の愛知県西部の生まれで、織田信長に仕えています。
信長が南信濃へ侵攻した時の当事者であった可能性は十分考えられます。
お互いがどういう立場であったかは解明しておりませんが、今後の研究課題です。
現在の仲の良さ?からすると、味方同士だったのでしょうね。…

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