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苗字の由来

代表的な苗字(名字)の由来と使用家紋を紹介します。

佐藤氏の由来と使用家紋
云わずと知れた全国軒数第1位の苗字は「佐藤氏」です。
『都道府県別件数順位』をみると以下の通り、
   ※電子電話帳「写録宝夢巣 Ver.9.01」(日本ソフト販売)より
 北海道(1位)  青森(2位) 岩手(1位) 宮城 (1位) 秋田(1位)
 山形(1位) 福島(1位) 茨城(2位) 栃木(3位) 群馬(3位) 埼玉(3位)
 千葉(3位) 東京(2位) 神奈川(2位) 新潟(1位) 富山(52位)
 石川(59位) 福井(32位) 山梨(5位) 長野(6位) 岐阜(10位)
 静岡(6位) 愛知(7位) 三重(11位) 滋賀(58位) 京都(26位)
 大阪(12位) 兵庫(27位) 奈良(53位) 和歌山(94位) 鳥取(59位)
 島根(11位) 岡山(4位) 広島(6位) 山口(48位) 徳島(1位)
 香川(13位) 愛媛(77位) 高知(166位) 福岡(7位) 佐賀(36位)
 長崎(18位) 熊本(13位) 大分(1位) 宮崎(5位) 鹿児島(77位)
 沖縄(―)
見ての通り、東日本に多いことが分かります。
特に東北地方では青森県(2位)を除いて1位を独占しています。 まさに「佐藤氏」は東日本の苗字といえます。
東北地方は同姓が集住する傾向があります。二、三の苗字で八割近くを占める村があるほどです。 そこには血族の広がりもありますが、苗字をもらった非血族の同姓もあります。

 また「佐藤」は「佐(すけ)」という朝廷における次官の職位を務めたことに由来するといいます。 つまりトップに立つより補佐役として活躍しており、鎌倉期から江戸期まで大名に佐藤氏はなく、主要な公家や神官にも佐藤氏はありません。
領主や主君と同じ名字を家臣は名乗ることはできません。このように領主層でなかったこともあり、佐藤氏は広がったとも考えられています。 (参照『名字の地図』森岡 浩著)
さらに東北に関していえば、ここは源義経の忠臣佐藤継信・忠信の出身地です。
“判官びいき”“反中央”の意識もあって二人はヒーロー的存在として受け取られており、 これも東北地方に「佐藤氏」が広がった要因と考えられます

佐藤氏の由来と家紋
 最も知られた佐藤氏として、藤原北家房前の子魚名の末裔である藤原秀郷を祖とする佐藤氏があります。
藤原魚名は奈良時代の政治家で、光仁天皇の信任が厚く、左大臣まで上り詰めた人物です。
しかし光仁天皇の死後に失脚し大宰府へ左遷となり、その途中の摂津国豊嶋郡で発病、入京を赦されましたがまもなく死去しました。 まさに悲劇の人物です。
大阪府豊中市の服部天神宮の石塔は藤原魚名の墓と伝えられています。

 魚名には藤原鷹取、藤原鷲取、藤原末茂、藤原藤成、藤原真鷹の男子がいましたが、これらの子孫は中央政界を去り、地方に活路を見出します。
藤原藤成の子豊沢、孫村雄は下野国(栃木県)へ下り下野掾や押領使という地方官となります。 やがて在地豪族と婚姻関係を結びそのまま土着しました。
藤原秀郷は、村雄と在地豪族鹿島氏の娘との子といわれています。
藤原秀郷は下野国南部(現在の佐野市が本拠地)に勢力を持ち、天慶3年(940)平貞盛とともに 平将門の乱を平定し、この功により下野守、武蔵守、鎮守府将軍に任じられました。
武勇に秀でた秀郷の子孫は武家として東国に広がり、その一つが「佐藤氏」となります。

 藤原秀郷の逸話として「百足退治」が知られています。
その舞台は近江国瀬田(滋賀県大津市)の唐橋で、琵琶湖に住む龍神一族の姫の願いで三上山を七巻半するという大百足(むかで)を俵藤太(藤原秀郷)が退治し、 その龍神の助けで平将門の弱点を見破り討ち取ることができたと伝えられています。
これと似たような話は栃木県にも残されています。

 藤原秀郷の六世孫藤原公清「左衛門尉」に任じられます。 その子季清、孫の康清も「左衛門尉」に任ぜられたため、官名の「左」をとって佐藤と称したというのが定説となっています。 ところが、系図によっては公清の祖父文行が佐藤氏を称したとあります。(『結城系図』『美作佐藤系図』)
その他に、藤原秀郷の居住地下野国佐野(栃木県佐野市)に由来するという説、 藤原秀郷の孫文脩が「佐渡守」に任じられたことに由来する説、 公清の父公光が豊後国の住人佐伯大神惟基の婿養子となり「佐伯藤大夫」を称したことに由来する説などがあります。

 佐藤氏の家紋といえば「車輪紋」です。
源氏車紋 伊勢国へ移った佐藤氏は、伊勢外宮の宮方を努め大神宮奉献の任務を記念して、 その車の輪を家紋にしたといわれています。伊勢信仰が広まると、佐藤氏は神官・御師として諸国に分散します。 これにより「車輪紋」の全国に広まり、佐藤氏を名乗る代表紋となったといいます。

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京都の中の佐藤氏
西行法師庵 【西行法師庵の跡】
所在地 京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27(二尊院内)
佐藤義清は保延6年(1140)勝持寺で出家し、西行と名を改めます。 西行は二尊院門前近くに庵を結んだと伝えられています。 二尊院の総門を入って左手には「西行法師庵の跡」の碑があります。
佐藤継信・忠信の塚 【佐藤継信・忠信の塚】
所在地 京都市東山区馬町通東大路東入北側常盤町
この地には佐藤継信・忠信兄弟の墓と伝えられた巨大な十三重石塔が建っていました。 この塔は京都国立博物館に移されています。その旧地に「佐藤継信・忠信之墓」という石碑が建てられています。 明治期に佐藤政養がこの土地を購入し、死後に関係者により建立されたといいます。

※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。
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 また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。

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