農家のライフサイクル

江戸時代の農民はどうな一生を送ったのでしょうか。
下の図は農家のライフサイクルを系図上で説明したものです。

江戸時代の結婚は早い
 家庭の経済事情や地域性により異なりますが、男子の初婚年齢は25歳から30歳がピークで、女子は20歳前後が最も多く30歳までには結婚しています。
年齢差は5歳前後、男性が年上です。
 女性の平均出産数は5.81人(江戸中・後期の濃尾地方)、 平成23年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に出産する子供数の推計値)が1.39人ですので約4倍です。
しかし、一方で乳幼児の死亡率は高く、播磨国黍田村では10歳児までの死亡率が19.8%、 信濃国湯舟沢村では2歳児までの死亡率が20%弱あったといいます。
「七歳までは神のうち」といわれたように、子供は突然親のもとから消えてしまう存在でもありました。 そのため安産と子どもの健やかな成長を願い、通過儀礼のなかで様々なお祝いをしました。
一般的に寒冷地は乳幼児の死亡率が高いことから早婚・多産が必要とされたようで、女性の初婚年齢も西高東低の傾向にあるといわれています。
 医療が十分でなかった江戸時代では、出産は命がけの仕事でした。出産で命を落とした女性も少なくありません。 過去帳で死亡日が近い母子の記載を見ることがありますが、多くの場合出産が影響しています。

江戸時代は離婚・再婚が多かった
 江戸時代、結婚後数年間の離婚件数は多いものの、結婚生活が10年以上になると離婚件数が格段と少なくなります。 つまり熟年離婚は少なかったわけです。
離婚の大きな理由に、「子どもを産めない」「家風に合わない」「舅姑とうまくいかない」があります。
離婚が多い分、男性の再婚率は高く、子孫を増やし家と家業を維持するために結婚が必要不可欠だったのです。
一方、女性は出産年齢を過ぎると再婚の機会はほとんどありませんでした。

嫡子の単独相続、次男三男は一生独身も
 江戸時代の農家は経営規模が小さく、基本的には家族の労働力に頼っていました。
分家させるだけの農耕地が無い貧農では、嫡子による単独相続が原則で、次男三男は養子に行くか、実家の扶養を受けて一生独身で過ごすしかありません。
 嫡子以外の兄弟姉妹は奉公に出るのが一般的で、奉公先で技能を磨き、信頼を得て自立できる生活基盤を作れればそのまま村に戻らないこともありました。
 奉公先は商家や富裕な農家、武家になりますが、これらは城下町や宿場町などに多く、都市部には地方出身者特に男性の流入者が増えることになります。 享保6年(1721)の江戸町人の人口構成は64%が男性であったといいます。これも地方からの男性移入者の増加が原因といわれています。

江戸時代の絶家率は40%強
 播磨国黍田村(小野市)の宗門人別帳の統計を参考にすると、
享保21年(1736)頃の黍田村には44軒の農家がありましたが、137年後の明治5年(1872)には44軒中21軒が絶家となっています。 その絶家率は45%です。
この驚くほど高い絶家率は、江戸時代の厳しい農村の実情を示しています。この状況は他村でも大差ないと考えられています。
 絶家にいたる理由は以下の通りです。
  一家全員死亡・・・貧困による晩婚と少子・栄養不良と医療難民
  欠落・逃亡 ・・・借金苦による夜逃げ
  他村へ引越 ・・・生活苦で縁者を頼る
  他家へ養子嫁入り ・・・生活苦のため
 しかし、明治3年(1870)頃の黍田村は家数61軒と、軒数は増えています。
これは絶家の農地を買い取った富裕家が分家を出したためであり、有力な地主家への農地集積の現実を示しており、 村内に特定の苗字が多いのはこのこととも関係しています。(下図参照)

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