家紋の由来

よく使われる人気家紋の由来と使用する苗字を紹介します。

梅鉢紋の由来と使用苗字
梅鉢紋 「梅紋」は梅の花を幾何学的に図案化した「梅鉢(うめばち)紋」と、 写実的に表現した「梅花(ばいか)紋」に大別され、100以上の種類があるといわれています。

梅花の文様は奈良時代には使われていたと考えられ、平安時代には衣服や調度の文様にも広く使われていました。
梅紋の代表といえば菅原道真です。
道真は日頃から梅の木を愛し、都を離れる時に詠んだ歌は有名です。
  「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
また、京の都から一晩にして道真の住む大宰府の屋敷に飛んできたという「飛梅伝説」も知られています。
このように、梅を愛した菅原道真でしたが、家紋とした形跡はなく、ただ衣類家具の紋様として使っていただけのようです。
しかしこのような逸話からか、菅原道真を祀る天満宮では神紋に梅花の文様を用いるようになります。

鎌倉時代以降、天満宮信仰が盛んになると、菅原道真に縁のある公家や武家の間に「梅花紋」を使用することが広まっていきます。
 京都の北野天満宮は「梅星紋」、東京の湯島天神は「梅鉢紋」、大阪の大阪天満宮は「加賀梅鉢紋」、 福岡の太宰府天満宮は「梅花紋」を神紋としています。

室町時代の『見聞諸家紋』には、「梅紋」松任氏筒井氏平氏の家紋とあり、戦国時代になると諸国に広がりをみせます。
なかでも天満宮を篤く信仰した美濃斎藤氏は領内に天満宮を勧請し、家臣や豪族も「梅紋」を家紋にしたといわれています。
おなじく美濃斎藤氏の庶流である加賀藩主前田氏も「梅紋」(加賀梅鉢紋)を使用しています。 加賀前田氏については、前田利家が菅原氏を自称しており、系図上では後述する「美作菅家党」の支流としています。
美作国(現在の岡山県東北部)勝田郡を中心に勢力を持った「美作管家党」は、道真の末裔知頼が美作守となり下向し、 その子真兼が押領使となり美作国に住み着き、美作菅家党の祖となったといわれています。
「梅鉢紋」は「美作菅家党」の代表紋であり、ほとんどの一族が「梅鉢紋」を使用しています。
大和国(現在の奈良県)は菅原氏発祥の地であり、天満宮信仰も盛んです。 この関係から戦国大名の筒井氏をはじめ、今井井戸辰市今市中坊などの諸豪族も「梅紋」を使用しています。

「梅紋」を使用する家は、大きく二つに分けることができます。
一つは、菅原道真の子孫である家、もしくは子孫と自称する家、
そしてもう一つは、天満宮信仰に関係する家です。

揚羽蝶紋の由来と使用苗字
揚羽蝶紋 蝶の文様はすでに、奈良時代より使われていたといわれています。その優美な文様から特に公家に愛用されたようです。 その後、平安朝以後武家の起こりとともに、武家もまた用いるようになりました。 そしてこれを最初に定紋としたのは、平氏だといわれています。

後世の造作ともいわれていますが、その由来は平清盛の父貞盛が、 天慶の乱を討伐した功で、朝廷より頂戴した鎧に「向い蝶」の文様があったことから、平氏の代表紋となったといわれています。
平重盛の子維盛は、「蝶紋」を車の紋様に用い、 その他の平家一門も鎧などに「蝶紋」を使用しています。
平氏は壇ノ浦で滅亡しますが、各地に残る落武者部落で平氏の末裔と伝える一族に、「蝶紋」を家紋とする家は少なくありません。

しかし、桓武平氏の諸氏が、いずれも「蝶紋」は使用したわけではありません。
桓武平氏高棟流の公家、伊勢平氏の末裔などは「蝶紋」を使用していますが、千葉氏「月星紋」上総氏「星紋」畠山氏「村濃紋」北条氏「三つ鱗紋」を用い、「蝶紋」を使用していません。

織田信長(忌部氏の後裔)は、清和源氏の足利室町幕府にとって代わろうと、ある時期から平氏の後裔を称して、「揚羽蝶紋」を用いるようになりました。 これは当時、“源平交替論”ということが信じられ、つまり源氏の次は平氏が政権をとるということがいわれており、そのため織田信長は平氏の子孫を自称したといわれています。
このように、自らを平氏の後裔と称して「揚羽蝶紋」を用いる者もいたようです。

また「揚羽蝶紋」は、「蔦紋」「桐紋」とともにおんな紋として人気があります。
おんな紋とは女性専用の家紋のことをいい、一般的には母から娘へ受け継がれます。
江戸時代、武家が娘を嫁がせる際に実家の家紋を持って行かせたのがその始まりだとされています。
しかし、おんな紋の慣習は西日本、特に関西地方にみられ、東日本では一般的ではありません。

橘紋の由来と使用苗字
「橘紋」は橘の葉や実を図案化したものです。
橘の木は垂仁天皇の命を受けた田道間守(たじまもり)が、 中国から持ち帰ったといわれ、 伝来者の名にちなみ「田道間花」とし、ここから「たちばな」といわれるようになったと伝えられています。

奈良時代、県犬養美智代は天皇から大変愛され、橘の姓を賜り橘美智代と名乗りました。 その子・橘諸兄は橘姓を継ぎ、橘氏は広がります。 橘諸兄の時代には家紋はなく、後孫が橘氏のシンボルとして「橘紋」を用いたと考えられています。 しかし、橘氏はそれ以降振るわなかったために、出自とは関係なく他氏が橘紋を用いるようになりました。

橘紋の武家で最も知られるのが、遠江国井伊谷(浜松市)から起こった井伊氏です。
井伊直政は徳川四天王の一人と称され、子孫は彦根藩十五万石の大名として明治維新を迎えています。
井伊氏の祖・井伊共保には次のような伝説があります。
共保は社参に来た神主に井戸で拾われた赤子でした。 その時、井戸にあった橘の一果をもって共保が産衣の紋としたといわれ、 以後、井伊氏は「井桁に橘」を家紋とするようになったと伝えられています。
井伊氏は「井桁紋」「橘紋」を別々にして用いており、『見聞諸家紋』では筆勢のある井の字となっています。
下左図 平井桁紋  下右図 井伊橘紋
平井桁紋井伊橘紋

その他、「橘紋」を使用する武家には、土佐の安芸氏、播磨の小寺氏(橘に藤巴紋)
薬師寺氏(丸の内三本橘紋)、近江の山中氏、近江の雨森氏(十二葉付三つ橘)
肥前の渋江氏があり、 その他にも藤原流の村上篠瀬久保氏、 橘流の紅林薬師寺氏ら九十余家に及ぶ旗本が橘を定紋としました。
また「井桁に橘紋」は、日蓮宗の寺紋としても知られています。 

木瓜紋の由来と使用苗字
木瓜紋 「木瓜紋」は藤紋・鷹羽紋・桐紋・酢漿草紋と並んで日本五大紋の一つに数えられている人気の家紋です。
「木瓜紋」は胡瓜(きゅうり)の切り口を図案化したといわれますが、本来は「カ(穴カンムリに巣と書く)」と呼ばれる 地上に作った鳥の巣を象ったものと考えられています。 また、神社の御簾(ぎょれん)の帽額(もこう)に使われた文様に由来するともいいます。
よって、「木瓜紋」は卵が増える鳥の巣に因むことから子孫繁栄を、神社の御簾に由来することから神の加護があるという 縁起の良い文様として諸家に用いられるようになりました。

祇園祭で有名な八坂神社の神紋は「木瓜紋」です。
祇園社は須佐之男命を祀り、京都の八坂神社を本家として、博多の櫛田神社、尾張の津島神社、播磨の広峰神社などが知られ、 いずれも「木瓜紋」を神紋に用いています。 祇園社の祭礼では「木瓜紋」が瓜の切り口に似ていることから、祭礼の間は瓜を食べない決まりになっているといいます。

「木瓜紋」を使用した戦国大名としては、織田信長で有名な尾張織田氏(五つ葉木瓜紋)が最も知られています。
織田氏の先祖は越前織田剣神社の神官とされ、越前守護家の日下部氏流朝倉氏(三つ盛り木瓜紋)に仕えたことから「木瓜紋」を賜わったといわれています。
この日下部氏は但馬国(兵庫県北部)の古代豪族ですが、日下部一族の多くは「木瓜紋」を使用しています。

その他に、奥州の戦国大名小野寺氏「六つ葉木瓜紋」、武蔵七党横山党の海老名氏「二つ五葉木瓜に庵紋」を使用しています。 公家では徳大寺家が家紋としています。
徳川時代の大名家では織田、堀田、有馬の三氏、他に百六十余家に及んでいます。

七曜紋の由来と使用苗字
七曜紋 「七曜紋」の「●」は「星」を表しています。
易学の影響から、「星」は「曜」とも称されます。 「星」は、狩猟者や航海士にその位置を示し、暦をつくる上でも欠かせない存在です。
とりわけ「北極星」は、真北にあって動かないことから方位を知る基準となり、 「北極星」を囲んでまわる「北斗七星」は信仰の対象として重んぜられました。 「北斗信仰」は中国から日本に伝来したとされ、奈良時代の正倉院御物には「北斗七星」を彫ったものがあります。

「北斗七星」に対する信仰は、わが国では「妙見信仰」として知られています。
「妙見信仰」は、「妙見菩薩(北辰妙見菩薩ともいう)」を仏様として尊崇します。 「北斗七星」を象った「七曜紋」は「妙見菩薩」の象徴とされ、妙見信仰の霊場では「七曜紋」「九曜紋」の星紋が多く用いられています。
また、「七曜紋」の七つの星は「日・月・火・水・木・金・土」を表し、「日輪・月輪・光明輪・増長・依怙衆・地蔵・金剛手の七菩薩」を意味するといわれています。

このように「妙見信仰」と関わりが深い「七曜紋」は、その信者、とくに武神として崇敬する武家の間で、家紋として次第に広がります。 その代表格が下総の豪族・桓武平氏良文流の千葉氏です。
千葉氏の伝承では、平将門と共に兵を挙げた平良文(千葉氏先祖)が、戦場で窮地に陥った時、天空から星が降ってきて、 それに力を得た平良文が勝利したことから、「星紋」を用いるようになったと伝えられています。
いずれにせよ、千葉氏は古くより「妙見信仰」に帰依していたようで、居住地には「妙見菩薩」を勧請し、元服式は「妙見菩薩」の前で執り行っていたといいます。
千葉氏の場合は、嫡流が「月星紋」を用い、庶流は「七曜」「九曜」など「星紋」を家紋にしたといわれています。

江戸時代になると、「七曜紋」「七面大明神信仰」とも結びつきます。
子供に恵まれなかった田沼意行は、出産・安産守りの神である「七面大明神」に祈誓をかけ、 後の老中・田沼意次が生まれたと伝えられています。
その後、田沼家は「七曜紋」を家紋としています。
「七面大明神(七面天女ともいう)」は法華経の守護神とされ、日蓮宗総本山の身延山久遠寺をはじめ、日蓮宗寺院で祀られています。

戦国期から近世期にかけて「七曜紋」を家紋とした武家には、
尾張稲生氏 甲斐内河氏 尾張小坂氏 紀伊九鬼氏 土田氏、 武蔵都築氏 常陸半谷氏 信濃望月氏 相模和田氏 垣屋氏などがあります。

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