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亀山藩家臣のご先祖調べ

 亀山藩は京への山陰道入口に当たり、幕府が重要視した土地でした。代々5万クラスの譜代大名が封じられ、幕府の要職にも付きました。 亀山藩は、「関ヶ原の合戦」で徳川家康に内通した亀山城主前田玄以はそのまま所領を安堵されたことに始まります。
慶長14年(1609)徳川氏譜代の家臣岡部長盛が就封し、亀山城下町の原型が出来上がります。 元和7年(1621)岡部長盛が福知山藩へ加増移封されると、以降短期間に藩主が代わります。
元和7年三河西尾藩より大給松平家の松平成重が入封。
寛永11年(1634)近江膳所藩より菅沼定芳が入封。
正保5年(1648)藤井松平家の松平忠晴が入封。
貞享2年(1685)備中庭瀬藩より久世重之が入封。
元禄10年(1697)美濃郡上藩より井上正岑が入封。
元禄15年(1702)遠江浜松藩より青山忠重が入封。
寛延2年(1749)丹波篠山藩形原松平家の松平信岑が入封し、以後明治維新まで亀山藩主として定着しました。 明治2年(1869)伊勢亀山藩との混合を避けるため亀岡藩と改称しました。

亀山藩
  藩庁 亀山城(亀岡市)  
  江戸屋敷 上屋敷 雉子橋御門外(千代田区一ツ橋2丁目) 
下屋敷 巣鴨御駕篭町(豊島区巣鴨1丁目)
 
  石高(表高) 5万石
  江戸城控間 帝鑑間
  格付け 城主
  爵位 子爵

亀山藩の歴代藩主
    ※歴代藩主の中で青山氏と形原松平氏を記します。
青山氏 家紋:無地銭紋
本姓:藤原北家花山院流
菩提寺:
代数 氏名 官位 在職
青山忠重
(ただしげ)
従五位下・
下野守
元禄15年(1702) ~
享保7年(1722)
青山俊春
(としはる)
従五位下・
下野守
享保7年(1722) ~
享保15年(1730)
青山忠朝
(ただとも)
享保15年(1730) ~
寛延元年(1748)

形原松平氏 家紋:丸に利字紋
本姓:清和源氏松平氏流
菩提寺:
代数 氏名 官位 在職
松平信岑
(のぶみね)
従四位下・
佐渡守
寛延元年(1748) ~
宝暦13年(1763)
松平信直
(のぶなお)
従五位下・
佐渡守
宝暦13年(1763) ~
天明元年(1781)
松平信道
(のぶみち)
従五位下・
紀伊守
天明元年(1781) ~
寛政3年(1791)
松平信彰
(のぶたか)
従五位下・
紀伊守
寛政3年(1791) ~
享和2年(1816)
松平信志
(のぶゆき)
従五位下・
紀伊守
享和2年(1802) ~
文化13年(1811)
松平信豪
(のぶひで)
従五位下・
紀伊守
文化13年(1811) ~
天保14年(1843)
松平信義
(のぶよし)
従四位下・
侍従
天保14年(1843) ~
慶応2年(1866)
松平信正
(のぶまさ)
従五位下・
図書頭
慶応2年(1866) ~
明治4年(1871)

亀山藩の家臣団
 亀山藩の役職は以下の通りです。(近世後期の分限帳)
役職 知行高 役職 知行高
城代 700~500石 江戸御役所目付
江戸家老 600石 江戸御台所
家老 600石 江戸芝留守居
番頭 700~500石 江戸番屋役人
御年寄 300石役料50石 御料理人頭 13石3人扶持
御年寄番頭 400石 御料理方
御年寄番頭格 400石 江戸料理方
御用人 350~200石 御小姓 7両2歩
江戸若殿様附 200石 小納戸兼役 50石
江戸留守居 250石 御厩
御取持筒組頭 250石 御台所
組頭 250~200石 御茶道
近習 250~150石 御徒士役人
御取次持弓組頭 150石 御徒士
御取次 200石 持筒組
御近習 200石 持弓組
江戸御用人 200石 足軽
者頭 200~100石 足軽小頭
長柄奉行 100石 旗組
寺社奉行 000石 同心組
大目付 150~100石 同心組小頭
小納戸 70~50石 町目付
下野守様家老 70石 祐筆
京留守居 50石 江戸寺社兼役
使番 250~200石 寺社兼役
者頭留守居
兼江戸
150石 物書
小目付 寺社手代
郡奉行元締 150~50石 郷方山方手代
町奉行 100石 山方川方
普請奉行 70石 櫓奉行 15石3人扶持
江戸元締 70石 櫓奉行組
勘定役 15石 櫓奉行小頭
江戸勘定役 国上番
御代官 3人扶持 作事奉行

 江戸時代、桑田郡・船井郡域には弓射連中という地侍(郷士)の組織がありました。  丹波国には室町時代から自立性が強い国衆が盤踞しており、丹波国守護細川氏は在京し幕府管領職にあったため、領地支配はこれら国衆・地侍を束ねて守護代の八木城主内藤氏が担っていました。
 天正7年(1579)明智光秀により丹波国が平定され、抵抗した国衆・地侍の城砦は破却。 その明智光秀も羽柴秀吉により滅ぼされ、八木城主内藤氏配下の地侍や、明智光秀に従った地侍は滅亡するか、衰退することになります。
 丹波国の地侍は、戦国大名に仕官し居村を離れた者は少なく、多くは帰農し、土地の有力者として影響力を持ち続けました。
 このように戦国期に由緒を持つ有力者は、戦国期の領主支配の性格を色濃く残していたため、譜代下人を抱え、甲冑・弓・刀・鉄砲などの武具を所持し、「先祖の勲功」を誇り、平百姓に対しては特権階級であることを誇示していました。
 丹波地侍の子孫の強い意識は、藩や旗本領という枠を超えて団結し、弓射連中という地侍(郷士)の組織を生み出しました。 弓射連中の名簿を「郷帳」といいます。
 「郷帳」に記載された家筋は戦国以来の由緒を持つ可能性があり、苗字を持っています。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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亀山藩松平家の家臣
『家中知行分限帳帳 万延元年』より藩士家名
あ) 浅井・天野・青山・足立
い) 市川・伊丹・石川・今泉・市河・稲石・稲吉
う) 牛島・梅岡
お) 小笠原・及河・小沢・大岡・小田・岡本・太田・岡・小関・荻原

か) 角田・加藤・河部・神谷・河原・河野
き) 木村
く) 黒部・久留
こ) 小島

さ) 坂部・酒井・斎藤・佐藤
し) 柴田・清水・椎名
す) 杉山・鋤柄・杉浦・鈴木
せ) 関口

た) 高橋・高島・高畑・竹林
つ) 鶴見
と) 伴・戸田

な) 内藤・長塩・成田・南部・中島・奈良・長沢・中根
ぬ) 沼藤
の) 野口

は) 原田・林・萩原
ひ) 平野
へ) 逸見

ほ) 堀和

ま) 松平・松井・松山・牧原・牧
み) 三田・美田村・三宅・三浦・溝口
む) 村上

や) 山崎・山中・山本・山田・矢野・山出
よ) 吉村・横田
わ) 和田

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