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岡山県のご先祖調べ

令制国の備前国備中国美作国に相当します。
古代には吉備国といわれ、畿内や北九州そして出雲とともに、古代日本の中心地のひとつとして栄えた地域です。 大和朝廷は強大な吉備国勢力を抑圧するため、備前(のちに美作国が分国)・備中・備後の3国に分割させています。

戦国期以前の岡山県とその名字
 南北朝時代、児島高徳など後醍醐天皇に味方する在地領主が現われ、宮方(南朝方)が勢力を振るいます。 その後、一時期南朝に付いた山名氏が山陰地方で勢力を拡大させ、美作国の守護となっています。
 しかし明徳2年(1391)「明徳の乱」により山名氏が衰退、かわって乱鎮圧の功績により播磨の豪族赤松氏に播磨・備前・美作3国の守護職に任ぜられます。
 赤松氏が幕府内で力を持ち始めると、将軍足利義教は赤松氏の弱体化を謀ります。 危険を察知した赤松満祐は将軍足利義教を謀殺(嘉吉の乱)、赤松氏は一時衰亡します。
 かわって赤松氏と地域の覇権を争う山名氏が再び備前・美作国を領有することとなります。その後も赤松氏と山名氏は備前・美作国をめぐってしばしば抗争します。
 応仁元年(1467)「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将山名宗全は一族を率いて京へ出陣、その隙を狙って赤松政則は備前・美作へ侵入し守護職に返り咲きます。
 戦国時代になると、赤松氏の被官浦上氏が台頭し、守護代となって主家赤松氏を凌ぐ勢力を持ちます。そして浦上氏が備前・美作を事実上支配するにいたります。
 広島県よりの備中国では南北朝の争乱以後、幕府管領細川氏の一族が守護となります。守護代に庄氏石川氏を配置し在地支配を行わせます。

 ところが天文年間になると、出雲尼子氏が美作国・備中国に侵攻し、これらを支配下に置きます。さら尼子氏は備前国にも侵攻しますが、浦上氏がこれを防ぎます。 この頃、浦上氏の被官宇喜多直家が台頭し、備前南部を掌握します。ついには主家浦上氏を滅ぼし、備中・美作の一部にまで勢力を拡大します。
 永禄年間になると、備後国を平定した毛利元就が備中国へ侵攻、三村家親・元親を従え備中国を制圧、西進する宇喜多氏と対決します。 毛利氏宇喜多氏は対織田氏で和睦するものの、織田軍を前に宇喜多氏は早々に降伏、羽柴秀吉に属します。
 そして毛利氏も秀吉の旗下に入ると、備前・備中・美作は宇喜多氏の領国となりました。

 このように岡山県域は、室町・戦国期を通じて周辺の強大な戦国大名に侵略され、一大勢力に発展した戦国領主は現われませんでした。 戦国末期に宇喜多氏が戦国大名として輝きを放ちますが、豊臣政権の五大老に列せられた故であり例外といえるでしょう。

 戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。
 ただし名字の出自や由緒には諸説あり、すべては網羅できておりません。参考の一つにしてください。
 まず備前国には鎌倉時代から難波氏一族が広がりました。 分出した名字には津高・松尾・横尾・笠加・坂崎・野口・久米・三次・安江・辻・宮内・沖・安江・黒田・奥村・清水・木梨・江崎・木村・豊居などがありました。 清水氏は豊臣秀吉による水攻めの高松城主清水宗治が知られています。
 児島郡には佐々木氏族加治氏が勢力を持ち、飽浦(あくら)氏倉田氏を分出しています。
 そして児島郡には戦国大名宇喜多氏の祖とされる三宅氏が現われます。 同族には南朝方として活躍する児島高徳のほか、和田氏小島氏があります。
 邑久郡からは藤井氏頓宮氏長船氏虫明氏島村氏が起こり、 和気郡からは和気氏・伊豆の伊東一族とされる伊東氏が台頭し、沼元氏・日笠氏があります。
 磐梨郡からは刀工としても知られる吉岡氏水取氏小野田氏赤坂郡からは葛木氏赤坂氏そして苅田氏が出ます。
 御野郡には金光氏河本氏、児島郡からは上月氏が出ています。
 津高・御野郡には秀郷流藤原氏族松田氏が赤松氏被官として台頭し、守護代として備前西部を支配します。
 そして赤松氏の重臣浦上氏が和気郡を中心に勢力を拡大させます。浦上氏は播磨国浦上郷に起こり、備前守護代として台頭し、浦上村宗は主家赤松氏の凌ぐ権勢を手に入れます。
 その浦上氏も重臣宇喜多氏に滅ぼされます。
 宇喜多氏は備前三宅氏の後裔とされ、豊臣五大老の地位に上り詰めます。重臣には以下の諸氏があります。
  戸川・岡・長船・花房・明石・延原・伊賀・千原・宍甘(しじかい)・楢村・角南
 この他に国人領主として、宇垣氏河村氏福林寺氏があります。

 備中国では、都宇郡から瀬尾(妹尾)氏が起こり、平家方として活躍します。
 窪屋郡からは守護代をつとめた石川氏そして真壁氏、賀夜郡から小野氏生石氏が起こります。 小野氏は藤原純友討伐に武功を挙げた小野好古の後裔とされ、岡・水沢・井上・藤井・大島・阿曽沼の諸氏を分出しています。
 上房郡からは上野氏、浅口郡からは小坂氏下道郡からは広石氏森戸氏が出ています。
 小田郡からは小田氏小松氏陶山氏荘氏がおこり、荘氏は武蔵児玉党とされ有力豪族として成長し守護代にも任じられています。
 後月郡からは那須氏小宮山氏川上郡からは三村氏赤木氏が出ます。
 英賀・哲多郡からは新見氏楢崎氏が出ています。

 美作国では、菅原氏流の武士団菅家党が勢力を持ちます。
 その諸氏は以下の通りです。
 佐用・原田・前田・有元・小守・山本・戸川・富川・寺島・石原・三穂・植月・萩野・ 広戸・岡本・福光・鷹取
 菅原氏流でない江見氏芳賀氏渋谷氏も菅家党の一つに数えられています。
 この他、英多郡から粟井氏須々木氏豊福氏安東氏吉野郡からは宮本武蔵とゆかりがある新免氏が出ています。
 勝田郡からは後藤氏福田氏苫田郡からは中島氏苫東郡からは草刈氏が出てます。 草刈氏は白石・黒岩・中村・川端の諸氏が分出しています。
 大庭郡からは牧氏真島郡からは小瀬氏瀬尾氏三浦氏岩佐氏三船氏久米郡からは花房氏中村氏などが出ています。

 岡山県の苗字ベスト20位は以下の通りです。
1山本 2藤原 3三宅 4佐藤 5田中 6小林 7井上 8藤井 9渡辺 10岡本
11難波 12小野 13原田 14池田 15片山 16松本 17中村 18石井 19岡田 20吉田

 岡山県のベスト5をみると、西日本を代表する「山本」・「田中」と東日本を代表する「佐藤」が上位にきます。
 しかし「田」が付く苗字は5個あり、稲作地域の先進地であった西日本型の傾向が強いようです。
 さらに「佐藤」のほかに2位の「藤原」、8位の「藤井」と「藤」が付く苗字が上位にあります。隣の兵庫県に似ています。

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江戸時代の岡山県
 備前国は岡山藩池田氏が幕末まで支配し、備中国は幕府領・藩領・旗本領に細分化されます。 美作国は津山藩森氏が入りますが、森氏改易後は幕府領・藩領に細分化されます。
 廃藩置県時に岡山県に存在した藩と幕府領は以下の通りです。
藩名 城下町 主な藩主の変遷
岡山藩 岡山市 池田氏
新見藩 新見市 関氏
備中松山藩 高梁市 水谷氏→板倉氏
成羽藩 高梁市 山崎氏(交代寄合)
浅尾藩 総社市 蒔田氏(交代寄合)
足守藩 岡山市 木下氏
岡田藩 倉敷市 伊東氏
庭瀬藩 岡山市 戸川氏→板倉氏
生坂藩 倉敷市 池田氏
鴨方藩 浅口市 池田氏
津山藩 津山市 森氏→松平氏
勝山藩 真庭市 三浦氏
代官・奉行 陣屋地 管轄地
幕府領
生野代官所
兵庫県朝来市 吉野郡19村・勝北郡41村
幕府領
倉敷代官所
倉敷市 東北条郡8村・勝北郡13村・西北条郡9村・都宇郡15村・窪屋郡7村・小田郡21村・阿賀郡19村・後月郡1村・浅口郡10村・賀陽郡12村・哲多郡11村・川上郡6村
幕府領
大森代官所
島根県大田市 後月郡2村・川上郡13村
 藩庁が置かれた城下町には、大名家の移動にともない家臣や町人、寺院も移動します。よって前の領地との関係も考える必要があります。
「江戸時代は武士」との伝承があれば、まずは藩士名簿である「分限帳」を確認することをお勧めします。詳しくは各藩の項を参照してください。

岡山県の家紋
 岡山県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、岡山県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 片喰 2位 桐 3位 藤 4位 鷹の羽 5位 茗荷
6位 木瓜 7位 梅鉢 8位 蔦 9位 橘 10位 柏

 日本の十大家紋と比べると、沢潟紋がランク外となり、かわりに梅鉢紋がランク入りしています。
 関西圏に近いこともあり片喰紋の多さが目立ちます。
 3位の藤紋系苗字の多さとも関係しています。 また7位の梅鉢紋は美作の武士団菅家党の影響が多いと思われます。

岡山県の寺院
 岡山県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、岡山県の宗派別の割合は以下の通りです。
  備前
(岡山)
備中
(倉敷)
美作
(津山)
天台宗 15% 7% 11%
真言宗 35% 41% 48%
曹洞宗 1% 21% 7%
臨済宗 7% 8% 5%
浄土宗 2% 2% 5%
浄土真宗 7% 7% 10%
日蓮宗 23% 11% 9%
その他 10% 3% 5%
 岡山県は全体的に真言宗寺院の多さが目立ちます。これは四国同様に真言宗の勢力圏といえます。 一方、他地域に多い浄土真宗寺院の少なく、念仏系信仰の影響力は弱いようです。
 さらに備前国と美作国では曹洞宗寺院が少なさが際立ちます。特に備前国では1%ほどです。 かわりに日蓮宗寺院がそこを担っているのが特徴的です。

岡山県の神社
 備前国一之宮は吉備津彦神社(岡山市北区一宮)、神体山とされる中山の北西麓に位置します。
 背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。 第10代崇神天皇の御世に、吉備国を平定した大吉備津彦命を現人神として崇め、その屋敷跡に社殿が建立したことに始まるとされています。
 主祭神は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)です。その子孫が吉備国造となり、古代豪族・吉備臣へと発展したと考えられています。
 社家に大森氏があります。

 備中国一之宮は吉備津神社(岡山市北区吉備津)、神体山とされる中山の北東麓に位置します。
 本来は、当社は吉備国総鎮守でしたが、吉備国が三つに分割されたため「備中国一之宮」とされました。備前国一之宮の吉備津彦神社と備後国一之宮の吉備津神社は分霊とされています。
 主祭神は吉備津彦神社と同じく大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)です。
 一説には、大吉備津彦命の五代孫・加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)が祖神として大吉備津彦命をお祀りしたことに始まるといわれています。
 社家に賀陽氏藤井氏堀家氏河本氏があります。

 美作国一之宮は中山神社(津山市)です。
 慶雲4年(707)の創建とされますが、美作国が備前国から分立した和銅6年(713)に吉備の中山から勧請されたとする説もあります。
 主祭神は鏡作神(かがみつくりのかみ)です。

岡山県の紳士録・人名録
 国立国会図書館のデジタルコレクションにある紳士録・人名録を一部紹介します。
『日本全国商工人名録[明治25年版]』日本全国商工人名録 明治25年(1892)  職種別と商号
 『大日本篤農家名鑑 [第1冊]明治43年5月』大日本篤農家名鑑編纂所 明治43年(1910)  村名
『岡山商工人名録』岡山商業会議所 明治42年(1909)  職種別と所在地
『岡山県在野紳士録』細謹舎 明治22年(1889) 職業と所在地


※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。 参考の一つにしてください。
 また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。


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