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彦根藩家臣のご先祖調べ

 上野国高崎藩主井伊直政は「関ヶ原の合戦」の戦功により加増され、石田三成の領地近江国佐和山に立藩します。 直政の歿後、嫡男井伊直継は慶長11年(1606)琵琶湖畔の彦根山に新たに彦根城の建設し佐和山城から移ります。
 しかし直継は病弱で「大坂の陣」に参陣出来ず、代わって弟井伊直孝が参陣し活躍したことから彦根藩主となりました。
 藩祖井伊直政徳川四天王の一人に列す重臣で、歴代藩主の中からは大老職に選出され幕閣の中枢にありました。  石高35万石は譜代大名中最高です。

彦根藩
  藩庁 彦根城(彦根市)  
  江戸屋敷 上屋敷(千代田区永田町)  
   中屋敷(千代田区紀尾井町)  
   下屋敷(渋谷区代々木)  
  石高(表高) 35万石
  江戸城控間 溜間
  格付け 城主
  爵位 伯爵

彦根藩の歴代藩主
井伊氏 家紋:彦根橘
本姓:藤原北家勧修寺流
菩提寺:曹洞宗豪徳寺 (東京都世田谷区)
   曹洞宗清涼寺 (彦根市古沢町)
代数 氏名 官位 在職
井伊直政
(なおまさ)
従四位下・
侍従
慶長5年(1600) ~
慶長7年(1602)
井伊直継
(なおつぐ)
兵部少輔 慶長7年(1602) ~
元和元年(1615)
井伊直孝
(なおたか)
正四位上・
左近衛中将
元和元年(1615) ~
万治2年(1659)
井伊直澄
(なおずみ)
従四位下・
左少将
万治2年(1659) ~
延宝4年(1776)
井伊直興
(なおおき)
正四位下・
左中将
延宝4年(1776) ~
元禄14年(1701)
井伊直通
(なおみち)
従四位下・
侍従
元禄14年(1701) ~
宝永7年(1710)
井伊直恒
(なおつね)
従四位下・
侍従
宝永7年(1710)
井伊直興
(なおおき)
正四位下・
左中将
>宝永7年(1710) ~
正徳4年(1714)
井伊直惟
(なおのぶ)
左少将 正徳4年(1714) ~
享保20年(1735)
10 井伊直定
(なおさだ)
従四位上・
中将
享保20年(1735) ~
宝暦4年(1754)
11 井伊直禔
(なおよし)
備中守 宝暦4年(1754)
12 井伊直定(再任)
(なおさだ)
従四位上・
中将
宝暦4年(1754) ~
宝暦5年(1755)
13 井伊直幸
(なおひで)
従四位上・
中将
宝暦5年(1755) ~
寛政元年(1789)
14 井伊直中
(なおなか)
侍従 寛政元年(1789) ~
文化9年(1812)
15 井伊直亮
(なおあき)
正四位上・
左近衛権中将
文化9年(1812) ~
嘉永3年(1850)
16 井伊直弼
(なおすけ)
正四位上・
左近衛権中将
嘉永3年(1850) ~
安政7年(1860)
17 井伊直憲
(なおのり)
従四位上・
左近衛権中将
安政7年(1860) ~
明治4年(1871)

彦根城下
 彦根城下は彦根城天守のある城郭を中心に、三重の堀によって区画されています。
 内堀と中堀に挟まれた区画は内曲輪と呼ばれ、有力家臣の居住区域で町場はありません。
 中堀と外堀の間の外曲輪と呼ばれた区画には、「内町」と呼ばれる町人町と、それを囲むように武家町があり、北部と西部には武家町が集まっています。 そして堀沿いに大きな寺院が配置されました。
 外側の郭外には、「外町」と呼ばれる町人町と、足軽組屋敷が置かれていました。城下の外堀より内部へ入る所には門が設けられ、人の出入りに注意を払っていました。
 彦根城下は、元和8年(1622)頃までに町人町の町割がほぼ出来上がり、18世紀末には全容が整ったといわれています。

 彦根城下の初期には、旧佐和山城下の住人、四十九院村(現豊郷町)の住人、井伊家の前任地・上野国高崎城下の住人などが移り住んだとされ、佐和町や四十九町の町名は、それら出身地に由来するといいます。
 その際、旧佐和山城主の石田三成側に加担した者は排除されたらしく、彦根城下町に来住する場合、「関ヶ原の戦い」と「大坂の陣」において井伊家に敵対した者の子孫ではないという保証文言が必要とされました。 これは幕末まで続けられています。

 そして初期の町人は職種ごとの居住させられたため、町名が職種に由来しています。
 しかし元禄期(1688~1704)以降になると、周辺の農村部から移住者が増え、町名と関係のない職種の者も居住するようになります。 城下移住を契機に商人や職人になった者も少なくなかったようです。 しかし移住者がすぐに家持になることは容易でなく、借家人からのスタートであったと思われます。
 寛文5年(1665)の伝馬町の例では借家人63軒のうち、彦根藩領の者が55軒、近江国内の他領の者が3軒、他国の者が5軒となっています。 近隣から移住者が多いものの他国者の少なからずあります。
 治安を守るためには他国者は要注意人物です。 旅人の宿泊は1泊が原則で、長期滞在は許されません。商売などの目的で長期滞在する場合でも藩の許可が必要とされ、滞在する宿も特定されました。

彦根藩の家臣団
 彦根藩の家臣団は、知行取家臣の侍中(さむらいちゅう)、扶持取家臣の歩行(かち)、そして足軽や武家奉公人で構成されていました。
 彦根藩の中核である侍中は佐和山時代慶長7年(1602)で287人でしたが、明治元年(1868)では543人と激増しています。
 さらに侍中の階層をみてみると、1000石以上の「大身列」「詰衆」とよばれる最上級家臣は30家前後(元禄期)、 950石~300石の「武役席」と呼ばれる上級家臣は138家(貞享期)、次の270石~50石の「平士」と呼ばれる中級家臣は全知行取家臣の2/3を占めていました。
 「歩行」は軍役で騎馬を許されない身分です。江戸末期には彦根歩行96家、江戸歩行38家、伊賀歩行20家、七十人歩行63家がありました。 伊賀歩行は伊賀の忍集団です。
 足軽弓組(20人6組)と鉄砲組(30人25組・40人5組・50人1組)に分かれ、「武役席」の物頭が支配しました。 足軽は居住区として城下外堀の外「外ケ輪」に組屋敷が与えられました。
 通常足軽は一代限りの身分ですが、彦根藩では世襲が認められていました。

 侍中の仕官時期と出身国をみてみると、
「井伊谷からの直臣・今川氏滅亡後に仕官した今川氏旧臣」は遠江・駿河
「甲斐・信濃国経営後に仕官した武田氏旧臣」は甲斐・信濃
「上野国箕輪・高崎経営期に仕官した後北条氏旧臣」は上野
「佐和山入城後から井伊直継時代に仕官した家臣」は近江
「大坂の陣に仕官した家臣」があります。
 とくに近江への転封で倍の30万に加増されたことにより、近江国の佐々木・浅井・石田氏の遺臣が多く召し抱えられたようです。

 藩政を動かす重臣クラスとして、
 家老には木俣家を筆頭に椋原・庵原・長野・西郷・中野・三浦・岡本・宇津木・脇などが、 中老には宇津木・印具・沢村・三浦・岡本・広瀬・脇・戸塚・西郷など21家が勤めました。
      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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彦根藩の家臣
『慶長七年十一月 今寅年御家中分限帳』より藩士家名
あ) 青木・芦名・渥美・安間・阿部・相原・青柳・雨宮・相木・秋山・浅居・ 朝比奈・天野
い) 石原・庵原・稲富・今村・五十嵐・伊平・一瀬・市川・石黒・飯嶋・石貝・ 池谷・石川・岩居・伊与田・犬塚・伊藤・一海・伊黒・伊上・犬飼・石居
う) 宇津木・内山・上野・鵜山・植原・上松・上崎・宇津野
え) 海老江・江坂・江川・遠藤
お) 奥山・小野・岡・大窪・小野田・荻原・大塚・大村・小幡・小原・大久保・ 大嶋・小沢・沖・大河原・大留理・岡本・奥平・大鳥居・大田・大沢・大野

か) 川手・加藤・柏原・梶田・河合・加々瓜・川喜多・勝・金子・神山・神戸・ 金丸・河上・神尾・片桐・勝山・影山・桂
き) 木俣・岸・北村・木崎・刑部・絹田・木村・木戸・衣笠
く) 窪田・功刀・熊谷・久野・黒川
こ) 越石・小暮・後藤・河野・小瀬村・小山・小林・小嶋・甲上・小瀬

さ) 西郷・酒居・齋藤・佐藤・笹本・佐内・沢村・里見・佐成・佐場
し) 白居・塩野・下屋・嶋田・下居・芝田
す) 鈴木・菅沼・杉山
せ) 関口

た) 竹原・田中・只木・高木・田部・田村・田名村・高橋
ち) 千草
つ) 鶴田・塚原・土屋・柘
と) 戸塚・所・百々・伴・轟・富上・戸田・鳥山・徳田

な) 長野・中野・長田・長坂・中沢・中村・鯰江・成嶋・内藤・中嶋・中西・ 長居・長瀬
に) 西村・新美・西尾・匂坂
ぬ) 布下
の) 野呂・野付・乗松・野田

は) 橋本・孕石・長谷川・原・花木・早川・初鹿・八田・原畑・浜野・林
ひ) 広瀬・平子・日置・平居・平野・平山・日比
ふ) 藤田・福嶋・古屋・藤本・深見・福智
ほ) 細野・本郷

ま) 松下・松居・松平・松野・松沢・町居・前嶋・丸山
み) 三浦・三居・水野・皆川・宮崎・薬袋・三沢・三室・宮川・宮地
む) 椋原・向山・武藤
も) 森部・両住・森

や) 安居・矢野・八木・山下・山寺・山田・柳沢・山上・山路・柳島・八幡林
ゆ) 湯浅
よ) 横地・吉川・横打・横森・横山・依田・世継・吉村・吉田
わ) 和田・脇・渡部・若林・脇田

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